琥珀さんが突然そんな事を言い出した。
「それは五月病っていうんだよ」
「そうなんですかねえ」
「たぶん」
ちょっと前までは無駄にハイテンションだったのに、この落差はなんなんだろうか。
「はぁ……」
「……」
琥珀さんは憂鬱そうにため息をついていた。
「五月病の話」
「ふう……」
人間誰しも気分の上下があるものだ。
琥珀さんはあんまりそれを感じさせない人だから、こう憂鬱そうにしているのは珍しい気がするけど。
「……ねえ、琥珀さん」
「なんですか?」
「やる気がないなら部屋で大人しくしてればいいんじゃないかな」
問題はどうして俺の部屋にいるのかって事である。
「志貴さんが励ましてくれないかなーと思いまして」
「が、がんばれー?」
「……はぁっ」
かくん。
琥珀さんが大げさに肩を落とした。
「余計にやる気なくなっちゃいましたよー」
「いやそんな事言われてもなあ」
たまにはこれくらいのほうが静かでいいかもしれない……とか思う自分がどこかにいた。
つまり真面目に琥珀さんを励ます気は毛頭ないのである。
「俺は適当に本とか読んでるから、琥珀さんは部屋に戻る事。いいね?」
「……はーい」
琥珀さんに背中を向けて座る俺。
そういえば有彦に借りたマンガまだ読んでなかったんだよな。
「はぁ……」
「……」
「ふぅ……」
「……」
「……はぁぁ」
「あのねえ琥珀さん?」
思わず振り返る。
「なんです?」
「ため息つくと余計に気が滅入るって言うんだよ。だから我慢したほうがいいよ」
「そうですかー。助言ありがとうございますー」
ぺこり。
「いやいや」
これで静かになるかな。
「……」
ぺらり。
「……」
ぺらり。
「……」
ぺらり。
「……ね、ねえ琥珀さん?」
「なんですか?」
「部屋に戻らないの?」
「戻る気力も無いと言いますかー」
「……」
とてもじゃないけどマンガになんか集中できなかった。
「ああもう」
本を閉じる。
「何かあったの?」
俺は琥珀さんの隣に座って話すことにした。
「いえ、特に何があったというわけでもないんですが、なんかこう……」
「……まあ、たまにはそういう日もあるかな」
わけもない不安に襲われる日。
深層心理にある不安がその原因なのだが、それに気付かないから、気付こうとしないから余計に不安になる。
「琥珀さんにとって楽しい事を考えればいいんじゃないかな?」
「楽しい事ですか?」
「そう」
例えば俺をからかってる時とか、秋葉をからかってる時とか。
「……翡翠を可愛がってる時とか?」
俺は自滅するほどバカじゃないので、思った事は心の中に秘めておいた。
「翡翠ちゃんはいいんですけどねえー」
「なんだって?」
琥珀さんが翡翠に興味を示さないだって?
これは重症な気がする。
「なんていうかマンネリに退屈してきましてー」
ああでも言動はいつも通りだ。
「かといって何かやる気も起きないわけでー」
「むぅ」
琥珀さんといえばネタが無い事すらネタにするような人なのに。
「何か原因があるんじゃない?」
「うーん」
首を傾げる琥珀さん。
「色々やりすぎて疲れちゃったのかもしれませんねー」
「そんな……」
なんて琥珀さんらしくないセリフだろう。
「琥珀さんはもっと……人に迷惑かけるくらい元気でないと」
「そうですよね。わたしってみんなに迷惑かけてますよね」
「うっ!」
しまった、逆効果だった。
「特に志貴さんにはいつも……申し訳ありません」
ぺこりと力無く頭を下げる琥珀さん。
「そ、そんなことないって!」
俺は思わず叫んでしまった。
「そんなことありませんか?」
「ないから。そりゃ確かに迷惑だとは思うけど」
「……」
「いや続きがあるの。最初は確かにそう思う。でもさ、琥珀さんと一緒にいると楽しいんだよ」
「それは本当ですか?」
「ああ。嘘じゃない」
これは俺の本当の気持ちである。
「ということは、わたしは志貴さんに迷惑をかけてもいいと?」
「それはまあ、状況によるけど」
「そうですよねー。やっぱりわたしなんてー」
「ああ、いいからいいから! 全然構わない!」
「……はぁ……」
「……」
おかしい。いつもの琥珀さんだったらここで「そうですよねー。迷惑かけてもいいんですよねー」とか豹変するはずなのに。
そして俺が騙されたぁっ! という展開になるはずなのだ。
「ふう……」
なのに琥珀さんは憂鬱な表情のままである。
「こ、琥珀さんはそんな顔してちゃ駄目だ!」
俺は再び叫んだ。
「志貴さん?」
「琥珀さんは……俺の好きな琥珀さんは……!」
「え……」
琥珀さんの目が大きく見開かれる。
「……はっ!」
何言ってるんだ俺は。
「あ、あの、続きを……」
「いや、だから……」
しまった、言うなら一気に言い切るべきだったのだ。
気恥ずかしさが俺の全身を包み込んできた。
「……」
「……」
ええい、ままよ。
「……だから、げ、元気な琥珀さんが、琥珀さんが、好、きだからっ!」
噛んだ。
ここでかっこよく言えばいい男になれたかもしれないのに。
「……あはっ」
そんな俺を見て笑う琥珀さん。
「あははははははは」
「はは、ははははは……」
やっぱり俺ってそういうキャラじゃないよなあ。
まあ琥珀さんが元気になってくれたようだし、よしとするか。
「大好きですよ、志貴さん」
「……あれ?」
今なんと言いました?
「琥珀さん?」
「わたしは意地悪ですからもう一度は言いませんよ?」
口元を隠してくすくすと笑う。
その仕草はすっかりいつもの調子と同じだった。
「あ、ちょっと。それずるいって」
「それが志貴さんの好きなわたしですからー」
「いやそんな事一言も言ってないしっ!」
「うふふふふ」
「……はは、ははは」
やっぱり琥珀さんはこうでなくちゃなあ。
「ありがとうございます志貴さん。おかげで元気100倍ですよー」
「いや大した事はしてないって」
「やっぱり何事も乗り越えるには愛の力ですよねっ」
「ちょ……」
「ですよね?」
「……疲れたときはいつでも相談してよ」
照れくさかったのでそう誤魔化しておいた。
「無理に頑張らなくてもいいから」
「はい」
「いや、矛盾した事言ってるかもしれないけど、だから、要するに俺はありのままの琥珀さんが……」
「わかってますよ、志貴さんっ」
笑顔で抱きついてくる琥珀さん。
「ははは……」
一人で乗り越えられなくても二人だったらなんとかなる。
「これからも色々迷惑かけるかもしれませんが、宜しくお願いしますねっ」
「うん」
「……ってわけで、何かネタはありませんか?」
「いや今日はこれでめでたしめでたしにしようよ」
「そうはいきませんよー。やはりわたしは元気でないとー」
「……あははははは」
さてどうしたもんだろうかね。
「そういえばこの間さ……」
俺は思いつくままに琥珀さんに話を始めた。
それはもう、すっかりいつもの二人の姿であった。
完