琥珀さんは雛壇を前にくすくす笑っていた。
「今日はひまな吊りですよー」
「いや、ひな祭りだから」
「間違ってませんよ。ヒマな志貴さんを吊る日なんですから」
「……それはいつものことじゃないか」
雛人形が飾られてること以外は、まるっきりふだんの日となんら変わらない気がした。
「今日は楽しいひな祭り」
「それはちょっと違いますね」
そう言ってひなあられを取り出す琥珀さん。
「こういうものは普段滅多に食べないでしょう?」
「まあそうだけど」
適当にすくって食べる。
時々混ざっている豆がアクセントになっていてなかなか美味い。
確かにこれはひな祭りじゃないと食べないものだ。
「でも意外だったかな」
「何がです?」
「この家のことだからもっとデカイのがあるんだと思ってた」
俺の目の前にあるそれは、有間の家に置かれていたそれとさほど変わらない大きさだった。
「大きければいいというものではありません。大事なのは中身です。秋葉さまの信念ですね」
「……なるほど」
妙に説得力があるようなないような。
「どうせ片付けるのもわたしですしー」
「むしろそっちが本音じゃない?」
「あはは、わかります?」
「出す時だって言ってくれれば手伝ったのにさ」
正直今日これを見るまでひな祭りなんてものの存在をすっかり忘れていた。
「それは駄目ですよー。女の子の行事なわけですし」
「その理屈でいくと俺は五月に武者を一人で飾らなきゃいけないんだけど」
「ええ、期待してます」
「マジで?」
「冗談ですよ」
くすくすと笑う琥珀さん。
「琥珀さんが言うと冗談に聞こえないから怖いよ」
「勘ぐりすぎてるんだけですってー」
なんせ琥珀さんと話してる時は一瞬の隙が命取りになるからな。
「ところで志貴さん」
「ん?」
話題の転換に俺は思わず身構えた。
「そんな怖い顔をしないで下さいよー。なんでもないんですから」
「ほんとに?」
「ええ。志貴さんはひな祭りのお人形の名前をご存知ですか?」
「……そりゃまあ大雑把には」
「ほんとですか?」
「ああ。ええと……五人囃子に三人官女だろ?」
これくらいは俺でもわかる。
「そんでもってお内裏さまにお雛様……と」
あと誰だっけ。
一番下になんか二人いるんだけど。
「右大臣と左大臣ですね」
「……あ、そっか」
そういえばそんなのもいたなあ。
影の薄い右大臣と左大臣。
「右大臣は歌で出てくるのが遅いですしねー。左大臣なんて歌われてもいませんし」
「確かになぁ」
「厳密に言えば三人官女も歌われてはいないんですが」
「ねえさまに良く似た官女の白い顔だもんな」
三人とは歌われてないわけだ。
「そして五人囃子は吹っ飛んじゃうんですよねー」
「……それは替え歌の話」
「色々ありましたよね」
「ああ……」
それこそものすごく下らないものがたくさんあった。
最初に琥珀さんが歌ってたのもあったし。
「明かりを点けたら消えちゃったー」
「お花をあげたら枯れちゃったー」
こういう替え歌は妙にダークなのが多いのが特徴である。
「きょーおはかなしいおそうしきー」
「流行ったなあ……」
しかもどれだけ下らないものを作れるかで競った気さえする。
「タンスに激突タラちゃんとかですね」
「いやそれは別の歌」
「あはははは」
ひとしきり笑う琥珀さん。
「……困りました、もうネタがありません」
その後にものすごく困ったような顔をしてそんな事を言った。
「普通にひな祭りを楽しめばいいじゃないか」
「だってひな祭りにやる事って雛あられを食べて白酒を飲むだけですよ?」
「まあね」
ちなみにこうやって喋りながらも雛あられは食べている。
もうほとんど無くなりかけていた。
「だから白酒を飲んでしまったらあとはもう片付けが待っているだけなんです……」
「……大変そうだね」
「早く仕舞わないと結婚できなくなっちゃいますしねえ」
「琥珀さんそういうの信じてるんだ?」
ちょっと意外な感じがした。
「あ、バカにしてますね志貴さん。こういうのは案外侮れないんですよ?」
「そうなの?」
「ええ。例えば早起きは三文の徳といいますが、わたしは毎朝早起きして秋葉さまの財布からこっそり……」
「いやそれはただの泥棒だから」
「ま、今の軽いジョークです」
あさっての方向を見ながら笑っている琥珀さん。
「……」
どうにも怪しかった。
「ま、まあうん、信じたから悪いって事はないしね」
ただ過信するのはよくないとは思うけど。
「似たようなものでウェディングドレスを着ちゃうと結婚出来ないっていいますよね」
「芸能人なんかかわいそうだよな」
仕事で嫌でも着なきゃいけない時だってあるだろうに。
「実は秋葉さまも一度試着された事があるんですよ?」
「え?」
「ほら、婚約者の久我峰さまがいましたから……」
「あー」
そういえばそんなのもいたんだっけなあ。
「だから余計に雛人形に固執しているのかもしれませんね」
「……早く結婚出来たとしても相手があれだったら嫌だと思うんだが」
「そこまで面倒見てくれというのはワガママですよー」
「はは……確かに」
結婚ってのはまず自分の努力ありきのもんだろうしな。
「だから秋葉さまはこれのお雛様なんですよ」
「ふーん……」
確かに言われてみれば秋葉っぽい顔をしているように見える。
「翡翠ちゃんが三人官女。志貴さんがお内裏さまってところですかね」
「琥珀さんは誰なの?」
「わたしは影の薄い左大臣です」
「……なんでまた?」
「や、実はお内裏さまと左大臣は影でこっそりと密談をする仲で……」
なんでそんな裏設定が。
「最終的に左大臣とお内裏様によってこの雛壇は乗っ取られてしまうんです」
「そ、それってまさか?」
琥珀さんの遠野家乗っ取り計画を暗示しているのか?
「うふふふふふふ」
意味ありげに笑う琥珀さん。
「ま、そんな事はありませんのでご安心をば。やはりお内裏さまはお雛さまとくっつくべきだと思いますよ?」
「……それは……」
秋葉とくっついてくれという意味なんだろうか。
「わたしは影ながら応援してますのでー」
「……うーん」
どうもしっくりこない。
「修正しようよ。俺はお内裏さまって器じゃないよ」
秋葉はともかく、俺はただのグータラ兄貴なんだから。
「せいぜい五人囃子の一人ってとこだな。琥珀さんも、影薄いなんてのはあり得ないんだから三人官女でしょ」
「まあそれもそうなんですが」
「だからこう……さ」
俺は五人囃子の一人と三人官女の一人をくっつけた。
「あ?」
「こういう組み合わせが出来るのは割と普通なんじゃないかな?」
これがどういう意味を表しているのか説明するのは、野暮ってもんだろう。
「だから……その」
俺がその先を言おうとしたその時。
「にいさーん! 琥珀ー! 飲むわよっ! 飲みまくるわよっ!」
大虎になってしまった秋葉が部屋に乱入して来た。
「あ、秋葉……」
「すいません志貴さま、白酒のつもりでお渡ししたのが強いお酒だったようで……」
そしてその後ろからは困った顔をした翡翠が。
「さあ飲みましょう兄さん!」
ずいと一升瓶を差し出されてしまう。
「あ、あはは」
これじゃとても続きというのは無理そうである。
「困っちゃいましたねー」
少し顔を赤くして苦笑いしている琥珀さん。
「あら? 人形の位置がおかしいみたいだけど……」
秋葉が俺の動かした人形に気付き、手を伸ばそうとしていた。
「あ、秋葉さま!」
それを止める琥珀さん。
「それはそのままでいいんですよ」
「どうして?」
「どうしてって……ねえ?」
「……うん」
目配せしあい、頷く俺たち。
「何か怪しいですね……」
「な、なんでもないよ。あは、あはははは」
「さあさあ飲みましょう飲みましょう!」
その後はいつも通りのバカ展開。
まさに酒池肉林の大騒ぎ。
ほとんどその後の事は覚えてないけれど。
二つの人形が仲良くくっついて座っている事だけはしっかり記憶に残っているのであった。
終わる
これが基本だったと思うのですが。
誰に教わったわけでもないのに流行っていた不思議な歌だと思います。