夕食後、しずしずと翡翠が部屋に入ってきた。
「ん? なに?」
「こちらをご覧下さい」
どさっ。
「……」
ものすごい分厚い本を俺の目の前に置く。
「ごめん、ちょっと無理」
「無理ではありません。これは志貴さまには大事な事なんです」
「大事な事ねえ」
一体何事何だと本のタイトルを見る。
『貴方の健康と栄養素』
「……」
要は栄養素とやらで健康になろうという意図の本らしかった。
「翡翠の健康どうでしょう」
「いいよ別に」
俺はまったく栄養素やらビタミンなんぞに興味はなかった。
普通の生活してればそんなの大丈夫に決まってるじゃないか。
「よくはありません。志貴さまは元々お体が弱いのですから、きちんと栄養素を摂取して頂かなくては困ります」
「……ああ」
忘れがちだが、かつて俺は病弱少年だったのである。
アルクェイドのおかげなのか、今ではそれが嘘みたいに元気だけど。
「志貴さまが倒れられたら……わたしは辛いです」
「う」
そういう顔をされてしまうと弱い。
「わ、わかったよ。うん。栄養素を取る事が大事だってのはわかる」
「では?」
「……でもこれを読む気はしない」
そりゃ健康は大事だろうけどこんなもん読んでたらストレスが溜まりそうで精神的にはよろしくない。
「左様ですか。ではわたしが志貴さまにレクチャーしてさしあげますので」
「え」
諦めてくれると思ったら翡翠はそんな事を言い出した。
「おいおい……」
なんか変な方向に話が進んでいる。
いや、最初から変だったんだけど。
「食べ物の好き嫌いがあるならサプリメントでも構いません。どうぞ、ご希望のビタミン、栄養素をお申し付けください」
「……」
翡翠が変な健康マニアみたいになってしまっていた。
「ひ、翡翠。琥珀さんに変な薬飲まされたりしてないよね?」
まず気になるのがそこである。
もしくは琥珀さんの変装とか。
「姉さんは人の不幸を願えど人の健康を願うような事はしません」
「……確かに」
さりげなく毒舌翡翠。
まああんな姉じゃあ無理もないだろうけど。
「あ、あそこに翡翠の生写真が」
「……はい?」
「む」
もし琥珀さんの変装だったらもっと過剰な反応があっただろう。
「生写真とはなんですか?」
「いや、なんでもないよ」
どうやら本物の翡翠で間違いないようだ。
「それで……何かありませんか? 欲しい栄養素などは」
「……何かと言われても」
急にそんな事言われても思いつくもんじゃない。
「逆にこういう症状がある、でも構いません」
「症状ねえ」
さて、今の俺になんかあったっけ。
「昔はよく貧血になってたけど……」
「貧血の原因は鉄分が足りないことだと言われています」
「うおっ」
即座に答えが返ってきた。
「鉄です。志貴さま」
「て、鉄って……アイアン?」
思わずマヌケな質問をしてしまう。
「そうです。ただし鉄分を効果的に摂取するには、鉄の吸収を高めるタンパク質やビタミンCも同時に取ったほうが望ましいです」
「……鉄分って何に入ってるの?」
いや、そりゃ鉄に入ってるんだろうけど。
まさかクギとか食うわけにはいかないからな。
「代表的なものではレバーでしょうね」
「……そういえばどっかで聞いたことあるな」
鉄といえばレバー、血液といえばレバーみたいな感じで。
「レバーはビタミンCも入っていますので貧血防止には最適の食材と言えます。今度から晩御飯のメニューに入れていただきましょう」
「い、いや、今はもう貧血じゃないから」
「志貴さまの事だけを言っているのではありません。女性は元々鉄分が不足しがちですので」
「え? どうして?」
「そ、それは……」
口ごもる翡翠。
「その……女性特有の生理現象というか……月の……」
「あ」
そうか、アレか。
なるほど血が足りなくなるわけである。
「ごめん変なこと聞いて」
とりあえず謝っておく。
「ち、ちなみに葉酸も一緒に取るとさらに効果的なんです。そしてレバーにはその葉酸も含まれています」
「へえ……すごいんだな」
「味や食感が独特ですから苦手とされる方も多いですが……女性は毎日少しづつでもいいから取るべきなんです」
「でも毎日じゃ飽きちゃわない?」
「はい。その場合週に一度沢山食べるのがよいでしょう」
「ふーん……」
思わずメモを取ってしまう俺。
普段の勉強もこうだったらいいんだけどなぁ。
「ちなみに他に鉄が入ってるのってあるの?」
「割と多くの食品に入っていますよ。量は様々ですが。大豆や納豆にも入っています」
「へえ……」
「大豆はレシチン、サポニン、ビタミンE、B1、鉄、たんぱく質、カルシウム、食物繊維とかなりバランスよく栄養素を得る事が出来ます。だから昔の日本人は健康だったのかもしれませんね」
「……最近朝に味噌汁飲むってのも少ないからなあ」
それは遠野家がお屋敷なせいなのかもしれないけど、日本の一般家庭全体でもそうだと思う。
朝はパンじゃないと駄目だって人もいるからな。
パンと味噌汁じゃさすがに食う気にならない。
「じゃあ、今度から朝は和食にしよう。そのほうがいい」
「はい。姉さんに言っておきます」
やはり一汁一菜が朝の基本。
「ちなみに大豆、味噌汁繋がりで……豆腐も当然鉄やカルシウムが豊富です」
「ちっとも鉄っぽくないのにな」
「そういうものですよ。豆腐は大豆より消化がしやすいので胃腸が弱い人にもオススメです」
「へえ」
「さらに鉄を求めるならば具はハマグリがよいです」
「ハマグリも鉄が豊富なんだ」
「はい。コレステロールを減らす効果もありますね」
「……」
そう考えるとなんの変哲もないハマグリの味噌汁がすごい料理に思えてくるから不思議だ。
「なんだかすごく勉強になった気がするよ」
「いえ、ただの雑学ですよ」
そう言って少し頬を赤らめる翡翠。
「ははは……」
ここで終わってくれればためになるいい話で終わってくれたんだけど。
「ところでそのハマグリの味噌汁なんですが」
「うん、なに?」
「……既に作ってあるんです」
「え」
何かいまとても物騒な言葉を聞いたような気がした。
「ですから、その、宜しければ……」
「いや、その……」
いくら翡翠の料理の腕を知っていたとしても。
ここまでお膳立てさせられた状況で断れるはずが無く。
「じゃ、じゃあ……ありがたく、頂戴しようかな、はは、ははは……」
俺は健康とは正反対っぽい道を突き進むのであった。
完