彼女は、太陽が昇ると共に目覚める。
体中を伸ばし、筋肉を弛緩させ、ふわぁ、と小さく欠伸をする。
そしてすぐ傍で眠っている遠野志貴に視線を向け、笑顔を浮かべたように見えた。
眠っている志貴の頬をぺろりと舐め、ベットから飛び降りる。
ゆらゆらと尻尾を揺らしながら、彼女は志貴の部屋を後にした。
彼女の名はレン。
志貴の使い魔で、夢魔である。
「猫の一日」
使い魔とはいうが、外見は猫そのものだ。
彼女が志貴の使い魔であるということを知っている人間は遠野家にはいない。
彼女がヒトの姿になれるなどと言って、誰が信じるだろう。
レンは主人の前以外ではヒトの姿をすることはないし、ごく普通の猫として扱われていた。
そして行動そのものも猫なのである。
彼女は屋敷の住人が目覚めるまで屋敷の探索をしている。
猫というものはナワバリの中で生きる物だ。
ここが彼女の住処であるということは、ここは彼女のナワバリなのである。
二階を端から端まで移動し、時には跳躍をして椅子に登り、そこに異常がないか見回る。
二階は彼女の主、遠野志貴がいる階だ。
特に彼女はここを厳重に見回る。
「あ、猫さん。おはようございますー」
二階を全て回り終わった頃、屋敷の住人が起きてくる。
彼女の名は琥珀。
この屋敷の党首遠野秋葉のお付である。
「……」
レンはなんとなく琥珀が苦手であった。
何か彼女には近づくと危ないことがありそうな気がする。
「あ、ちょっと……」
ので、レンは即座に身を翻し、琥珀から離れることにした。
「……」
一階。
階段を降りた先のロビーをレンは歩いていく。
「おはよう」
「……」
また屋敷の住人である。
彼女の名は翡翠。
琥珀の妹で、志貴のお付のメイドだ。
レンにも優しくしてくれ、ミルクをくれたりする。
レンは彼女のことが嫌いではない。
にゃあ、とひと鳴きして足に近寄った。
「ふふ」
翡翠はニ三度レンの頭を撫でる。
「ご飯はいつものところに置いてありますので」
レンはそれを聞いてとてとてと台所へ走っていった。
台所にはレン専用の皿が置かれている。
レンはぴちゃぴちゃとミルクを舐めた。
時折跳ねて顔にかかるミルクを、手でごしごしとぬぐう。
顔にミルクがかかるのはレンは嫌いではない。
ぺろりと手についたミルクを舐めて、レンは満足そうに鳴いた。
食事を終え、レンは庭を歩いていた。
遠野家の庭はかなり広い。
ここを見回るだけでもかなりの時間を使う。
レンは一日の半分はこの庭を歩きまわっているのだ。
時々タチの悪い野良猫が庭に入りこんで来るが、大抵はレンと会うとすぐに逃げてしまう。
猫の世界は実力世界だ。
そしてそれは物理的な力よりも、いわゆる魔力のほうが優先される。
使い魔であるレンに、そのへんの野良猫が魔力で敵うはずが無い。
よって遠野家の庭は常に平和であった。
「……」
遠野家の中でも滅多にヒトの来ない森の奥。
そこの壁には穴があいている。
この事実はきっと誰も知らない。
何故ならレンはここを出た後に、レンガで穴を閉じてしまうからだ。
「……」
猫の姿でそういった行動をするのは難しい。
だから大抵彼女は屋敷を出た瞬間からヒトの姿に変わっている。
もし遠野家の傍で、壁を何やらいじっている少女を見かけたら、それはレンなのかもしれない。
「……」
レンの目的地はいつも同じだ。
猫がよく集まる公園がある。
そこもナワバリのひとつではあるが、どちらかといえばそこは公共の場所だ。
猫が集まりあって、適当にじゃれあい、遊び、怠惰な時間を過ごす。
ヒトの姿をしているレンは、ベンチに腰掛けて猫を撫でていた。
どこをどうすれば気持ちがいいのかは、自分の体でよくわかっている。
猫は満足そうな声を出して鳴いた。
時計というものが一番上を指すと、公園ではチャイムが鳴る。
それが鳴るころになると、飼い猫は自らの主の元へ、野良は餌を求めてほうぼうへと散っていく。
レンも同様である。
今日は茶ぶちさんと友だちになれた。
レンは上機嫌で遠野家へと駆けていく。
帰ってきたときには彼女は猫へと戻っている。
遠野家の正門は固い鉄格子であり、ヒトの姿だと開けるのに苦労するからだ。
猫ならば鉄格子の隙間をゆうゆうとすり抜けられる。
にゃあ。
レンは台所の勝手口の傍で鳴いた。
ぱたん。
翡翠が勝手口を開けてくれる。
レンは翡翠の横をすり抜け、もう一度にゃあと鳴いた。
「はいはい、ご飯ですね」
翡翠はレンの皿を持ち上げ、どこかへと運んでいく。
もっともレンはそのどこかがどこだか知っているので足早にそこへと歩いていった。
「あら?」
「……」
ダイニングには昼間だというのに秋葉がいた。
どうやら今日は日曜日らしい。
秋葉は主人である志貴が苦手のようなのでレンも苦手だ。
そそくさと部屋の端へ逃げてしまう。
「全く可愛くない猫ね」
秋葉はそんなことを言っていた。
「……」
レンは秋葉の言葉など意に介せず、日の当たる窓辺に寝転んだ。
すぐに翡翠がそこにミルク皿を置いていく。
レンはミルクを舐めながら秋葉たちのやり取りを聞いていた。
「はぁ、変質者、ですかー」
「ええ。近所に出没しているらしいわ。まったくろくでもない話よね」
どうやら近所に変なヒトが出没しているらしい。
「……」
そんなことよりも、レンは志貴はどうしたのだろうと言うことを考えていた。
「秋葉さま。志貴さまは起こさなくても宜しいのですか?」
「ええ。たまの休日くらい、たっぷり休ませてあげましょう」
志貴はまだ寝ているらしい。
なんだ、つまらない。
レンは志貴が起きてくるまで寝ていることにした。
「もし変質者に会ったら大変ですねー。秋葉さま、どうします?」
「ふん、一蹴してあげます」
「うわ、怖いですよー」
秋葉たちの会話を子守唄にしながら、レンは夢の世界へと溶けていった。
「レン、今日も行くのか?」
「……」
志貴が起きてから、ずっとレンは志貴に構ってもらっていた。
楽しいこと、びっくりすること、気持ちいいことなど色々してもらった。
気持ちいいことは結構志貴も喜んでくれた。
ミルクよりは苦いけど、志貴のは嫌いではない。
しかしレンはそればかりをしているわけにもいかないのだ。
彼女は夢魔ではあるが猫である。
ナワバリを見まわらなければいけない。
猫は元々夜行性なのである。
「そっか。頑張れよ」
志貴もそれを知っているのでそういって見送ることにした。
レンはふわりと微笑んだ。
公園。
昼は公共の場であるここも、夜はナワバリ争いの場だ。
縄張りを争い戦い、敗れたものはナワバリを譲る。
強い魔力を持ち、今やこの周辺のボスとなっていたレンは、そういった勝負を見守る役を務めていた。
ヒトの姿をし、ベンチにちょこんと座って闘いを見守る。
今日は闘いは少なく、お互いに場を譲り合ったり、話し合いで解決するようなことが多かった。
こういう日が多ければ嬉しいのに、とレンは思う。
猫は全て帰っていき、レンもそろそろ帰ろうかなとベンチを立った。
と。
「おおお、おじょうちゃん、いいものを見せてあげようか」
ヘンなヒトに出会ってしまった。
「……」
レンはしゃべる事が出来ないので、どう対応したらよいものか戸惑っていた。
「へへへ、これだよ、これ」
「……」
そのヘンなヒトは、コートをばっと開き、その中身を見せつけてきた。
「……」
繰り返すが、レンは夢魔である。
そして仕事は淫夢を見せることであった。
だから、そのコートの中身は何一つ着ていない男の裸体を見たところで、特に感想は無かった。
「……」
ああ、そうか。このヘンなヒトがへんしつしゃというヒトらしい。
レンは昼間の秋葉たちの会話を思い出していた。
「ど、どうかな?」
さて、どうしたものだろう。
そういえば秋葉だか琥珀が言っていた。
こういう輩は「小さい」と言ってやれば退散すると。
しかしレンは声が出せないのだ。
「……」
そういえばもうひとつくらい言っていた気がする。
確か。
こう見下すような目をして。
「……フッ」
鼻で笑ってやる。
「うおおおおおおおん!」
ヘンなヒトは、叫び声を上げて去っていった。
翌日に近所を騒がせていた変質者が自首してきたというニュースが話題になるが、それはまた別の話である。
「……」
世の中変なこともあるものだ。
レンは呆れていた。
家に戻ってくる。
ヘンなヒトのせいで少し帰りが遅くなってしまった。
勝手口に行ってもドアは開かないので、木から窓へと飛び移る。
志貴はいつも窓をあけてくれているのだ。
「……」
部屋に入ると志貴は眠っていた。
レンは朝やったようにぺろりと頬を舐める。
少し違うのは、朝は猫のままだったけど、今はヒトの姿をしていることだ。
「……」
彼女の仕事はこれからなのである。
そう、主人に淫夢を見せること。
ヘンなヒトのせいでなんだか気分が良くない。
夢の中で志貴に可愛がってもらおう。
レンはくすりと微笑んだ。
そして志貴の夢の中、二人の宴は朝まで続くのであった。