絹を裂いたような悲鳴が遠野家に響き渡った。
「な、なんだ! 天変地異の前触れかっ?」
声のしたのは台所からだ。
一体何があったというのか。
「どうしたっ!」
駆け込む俺。
「兄さんっ!」
がしっ!
涙目の秋葉が抱きついてきた。
「……おおっ?」
いつもネタにされてばかりだけど、しっかりとアピールしてくる秋葉の胸部。
いや、そんな事に感動している場合じゃない。
どうして秋葉が台所にというのも気になるところだが。
「何があったんだっ?」
「あ、あれを……!」
目線を向けず、震える手である方向を指差す秋葉。
「……ああ」
なるほどあれか。
台所家業を営むモノにとっては最も出会いたくない恐怖の存在。
「台所の黒い悪魔……」
「怪談より怖い話」
「よし、ここで待っていてくれ」
秋葉を後ろに立たせ、ソイツへと向かう俺。
「ど、どうするんですか兄さんっ!」
「退治するんだよ」
数は一匹、大きさも大したものではない。
途中置いてあったスリッパを手に。
この程度なら……
「おりゃあっ!」
ソイツへ向けて攻撃を仕掛ける。
さっ!
「なにっ!」
まるで俺の動きを察知したのように移動を開始する黒い悪魔。
ばしっ!
「避けられたっ!」
一度警戒したヤツは倒し辛い。
初撃で仕留めるべきだったのだ。
「くっ……!」
逃げていくヤツの軌道を予想するのは難しい。
そして同時に追い詰めすぎてもいけない。
「このっ!」
さっ!
「……くっ」
ヤツは物影の裏に隠れ見えなくなってしまった。
「仕留めそこなった……」
「そ、そんな!」
悲鳴に近い声をあげる秋葉。
「ちゃんと始末するさ」
なんせヤツらは1匹見つけたら30匹はいるという。
いや、俺の経験からするとその10倍はいたっておかしくはない。
ただ視界の中に入ってこないだけなのだ。
ヤツらは確実に人々の台所を、家を侵略していく。
「ほ、本当ですか? お願いしますよ?」
俺の手を掴んでぶんぶんと揺らす秋葉。
なんだか妙にしおらしくて秋葉らしくない。
いやむしろこれが本来の秋葉であると考えるべきか。
普段は強気を装っているがその実は弱気な……
「安心しろ! 俺が守ってやる!」
不思議な力が俺にみなぎっていた。
「さて……と」
秋葉を部屋へ戻し、単独で作戦を開始する。
ヤツを相手にする場合、多人数がいるのは逆に不利だ。
一人であれば冷静に対処できる。
しかし人数が多いと自分でない「誰か」が倒してくれる事を期待してしまうのだ。
ヤツとの対峙を望んでいる人間などいるまい。
みんな出来れば関わりたくないのだ。
「薬物兵器を導入する」
いきなり物騒だが、ヤツを相手にするにはこれくらいなくてはいけない。
「ドラッグストアで売ってた安売りのやつだけどな……!」
本来ならば多少高くてもいいモノを買うべきなのだ。
でないと薬物放射後に思わぬ抵抗を受ける。
その覚悟がない奴は資金を投資するべきだ。
「……」
いつでも発射出来るように構え、ゆっくりとヤツが隠れたところへ向かう。
そしておもむろに隙間を開け、一気に薬物を発射した。
シャアアアーッ!
勢いよく発射される薬物。
カサ、カサカサカサ!
中から音が聞こえる。
その数たるや一つや二つではない。
「やっぱり他にもいたか……!」
さらに薬物兵器を発射。
もうめんどくさいから殺虫スプレーと呼ぼう。
スプレーをそこいらじゅうに撒き散らす。
これは勿体無いようで効率がいい。
何故なら、逃げ出した位置にもその効果が残るからだ。
一匹の黒い悪魔は、逃げ出そうとしたが、撒いておいた床に移動してしまい、ひっくり返って足をピクピクさせていた。
「……」
見ていてあまり気持ちいいものでもないので目線を逸らし、他の駆除を行う。
シュッ!
シューッ!
ここだと思うところへピンポイントで発射。
モノのスキマや下などは奴らがもっとも潜みやすい箇所である。
冷蔵庫の下などは常に注意を払って置かなくてはいけない。
カサカサカサ!
「うおっ!」
いきなり足元に這い出てきた。
慌てて後ずさり、元居た場所へスプレーを発射する。
「くそ、やっぱり安物だな……」
効果を発揮するまでにかなりのタイムラグがあるようだった。
「この程度の大きさならいいが……」
黒い悪魔には様々な大きさがある。
小さい奴にはさほどの恐怖はない。
問題はでかいのだ。
必ずといっていいほど、ヌシのような存在がそこにはいる。
ヤツは滅多に人前に姿を現さない。
現われる時は死にかけのときだ。
だがその瞬間が最も人間に恐怖を与える瞬間である。
ガサガサガサガサ!
「……来た!」
電子レンジの裏がビンゴだった。
今までとはケタが違う音が聞こえる。
秋葉を戻しておいて正解だった。
こんなものをみたら秋葉はたちまち卒倒してしまっただろう。
「……っ!」
親指ほどの大きさの黒い悪魔。
そのプレッシャーたるや、見た瞬間逃げ出したくなるくらいである。
だがあぶりだした今がチャンスなのだ。
一気にトドメをさしてやる!
「くらえ!」
地面を這いまわる奴にスプレーを照射。
ものすごいスピードで地面を這いずり回る。
「くっ!」
壁に昇られてしまった。
この位置は不味い。
この位置は……
「兄さんっ! 助けを呼んで来ましたよ!」
「なっ……!」
振り返るとそこには秋葉と。
「ぎゃあ! ゴキブリの大首領!」
茶色い巨大な物体が!
「し、失礼ですね! 人をなんだと……!」
俺が地面にかがんだその瞬間。
「あ……!」
そいつは、人間が最も恐れる行動をやらかした。
「ひっ……!」
秋葉の悲鳴。
最後の力を振り絞ったような、黒い悪魔の飛翔。
ぶおおおんっ。
おぞましい音を立てて飛んだソイツは。
ぴた。
「あ……」
秋葉の胸元に付着し。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
再び大絶叫が遠野家に響き渡った。
「……業者に頼んで退治して貰う事になりましたっ」
たいへん機嫌の悪い琥珀さんが俺にそう伝えてくれた。
「酷いです志貴さん。いくらわたしが茶色い服を着てるからって」
「ごめんごめん」
アイツと対峙している時、人間はちょっと精神がおかしくなると思う。
「秋葉さまは完全にトラウマになっちゃったでしょうねえ」
「だろうなぁ……」
見ただけでもイヤだってのに。
「部屋に寝かせてありますが、うなされてるようです」
「……そうか」
アレのせいでトラウマになる人が増えるのである。
そしてその恐怖を過剰に伝える連中のせいで。
「いやでも本気で怖いんだよな」
ホラー映画なんかメじゃないと思う。
「そうですねー。アレは相手にしたくないですねー」
琥珀さんですら嫌っているようだった。
「っていうか秋葉はなんで台所にいたんだろう」
結局それはわからずじまいだった。
「お料理の勉強でもされてたのでは?」
「秋葉がねえ」
そうするとますます気の毒である。
「でも琥珀さんがいるのにヤツがいるとは思わなかった」
「それはどういう意味ですか?」
「ああ、いや、怪しいクスリとかで退治できちゃうんじゃないかなって」
「……あー」
それを聞いた琥珀さんはなんともいえない遠い目をしていた。
「実は昔実験に失敗しまして」
「実験?」
「はい」
なんだかその先は聞きたくないような。
「退治するつもりが何故かパワーアップをして……」
「……そ、それってさあ」
ああ、きっとこれは夢だ。
夢以外の何かであってたまるものか。
「はい?」
「琥珀さんの足元にいるような……?」
「え……?」
そこには触覚を左右に揺らした、拳ほどの大きさもある、ゴキブリが……
完