「うーん……」
台所のそばを通りかかると、そんな声が聞こえてきた。
なんだろうと中を覗くと、琥珀さんが鍋とにらめっこをしていた。
「何してるの?」
俺は琥珀さんに声をかけた。
「あ、志貴さん。いえ、その。ちょっと困ってまして」
「困ってる?」
「はい」
琥珀さんは視線を再び鍋へと移す。
「……カレーだね」
鍋の中にはカレーがたっぷりと入っていた。
今日の昼ご飯はカレーだったのだ。
しかし、俺はもう食事が終わったのに、こんなにカレーがあるだなんて。
「余っちゃったのか」
「はい。ちょっと作りすぎてしまいまして」
苦笑する琥珀さん。
「珍しいなぁ」
「いえ、今日は翡翠ちゃんが厨房にいましてですね。その」
「……ああ」
その言葉で全てを理解した。
つまり、料理音痴の翡翠が何かをして作りすぎてしまったのだろう。
「でも翡翠ちゃんを責める事は出来ませんし」
「だなあ」
翡翠はあくまで善意で手伝ってくれてるのだ。
それに、少しではあるが、料理も上達している。
「それで、余ったカレーをどうしようかって考えてたんですけどね」
琥珀さんは難しい顔をした。
「冷蔵庫に入れておけばいいんじゃない?」
「そうなんですけどね。それだと他のものに匂いが移ってしまいます。それに、ルーはともかく具は美味しくなくなってしまいますし」
「うーん……」
そんなことを言われても俺にはそういう知識がないからわからない。
「……よし、専門家を呼ぼう」
「専門家ですか?」
「ああ。カレーに関しては右に出るものなしだ」
あの人なら、きっといい方法を知っているはずである。
困ったときには。
「カレーが余った時」
「どうもこんにちわー」
しばらくして、満面の笑みを浮かべたシエル先輩が現れた。
電話で呼んだのだが「カレーがちょっと余っ……」の時点で「行きますっ、今すぐっ」と快い返事というか勘違いをしてくれて飛んできたのだ。
「とりあえず台所に案内するよ」
結構余ってたから先輩が食べたとしてもまだ余るだろう。
「はい。じっくりと味あわせていただきますねっ」
やる気満点だった。
「……」
シエル先輩は笑顔のままカレーを口に運んでいる。
幸せそのものといった感じだ。
「料理人冥利に尽きますねー」
琥珀さんも嬉しそうである。
「それでさ、先輩。ちょっと頼みがあるんだけど」
「はあ。なんでしょうか?」
皿が空になったところで先輩にカレーが余っていて保存に困っているという説明をした。
「なるほどなるほど。よくある話ですね。わたしも時々作りすぎちゃいますし」
シエル先輩に関しては、カレーをいくら作ったって作りすぎってことはないと思う。
「……何を考えてるんですか、遠野君」
「いや、何も」
危ない危ない。顔に出ていたようだ。
「それで、先輩ならいい保存方法を知ってるんじゃないかなって」
「……ああ、それでわたしに電話をしたんですか」
そこで先輩は自分の勘違いに気付いたらしく、少し照れた顔をした。
「いえいえ。余っているんですから食べてくださる方が増えて嬉しいですよ」
琥珀さんのナイスフォロー。
「ゴホン」
照れ隠しに咳払いをする先輩。
「では、カレーの美味しく保存できる方法をお教えましょう」
「はいっ」
琥珀さんはすでにメモを用意していた。
「まずは冷凍庫を使った方法です」
「え? 冷凍しちゃうの?」
「はい。冷凍させたほうが長持ちしますからね。冷蔵庫ではせいぜい四日が限度です」
冷蔵庫で四日も保存したカレーはちょっと食べたくない気がする。
「でも、冷凍すると鮮度や味って落ちちゃいません?」
料理人琥珀さんの鋭い質問。
「はい。それは確かにそうです。ですから、解凍後に温め直す時にカレー粉かガルムマサラなどのスパイスを足すとよいでしょう」
「なるほどー」
素早くメモを取っていく琥珀さん。
「カレーを冷凍保存する時は、まず野菜やお肉を、形のなくなるまで煮込んで、普通のカレーのようにルーで味付けをして冷ましてから冷凍するのがいいです」
「冷ましておくのは基本ですねー」
「そうなの?」
「はい。冷蔵でも冷凍でも、あらかじめ冷ましておけば冷たくなるのにかかる時間が短くなります」
「それによって鮮度が落ちにくくなると言うことですね。さらに、電気代の節約にも繋がるんですよー」
さすが一人暮しをしている先輩と遠野家の厨房を一人で担う琥珀さんである。
発想が丸っきり主婦だ。
「食べる時にはレンジなどで柔らかくした野菜などを足すとよいですね。野菜は形が有るまま冷凍すると、どうしても戻した時にスカスカになっちゃいますから」
「あ、それは経験あります。美味しくないんですよねー」
なんだか俺ひとりカヤの外だ。
「じゃあ今回は冷凍保存にするの?」
なんとか話に加わろうとそう尋ねてみる。
「うーん。無難では有りますが面白みには欠けますね」
腕組みをするシエル先輩。
面白みとかそういう問題じゃないような気もするけど。
「美味しさを追求する場合、真空保存が一番なんですけど」
「そうなんだ」
「はい。レトルト食品は大抵真空保存ですからね。ああいう商品は開けたらそのままの美味しさでしょう?」
「なるほど……」
確かにレトルトカレーとかは開けたらそのまま美味いカレーだ。
「家庭で真空状態を作るのはそれ専用の容器を買うのが一番手っ取り早いです」
「そんなもの売ってるんだ」
「はい。わたしは常に常備してますよ」
ポケットから容器を取り出す先輩。
どうやら余りのものカレーを持って帰ってくれるつもりだったらしい。
「シエルさん、宜しければお持ち帰りしますか?」
琥珀さんが笑顔でそんなことを言った。
「そそそ、そんな。悪いですよ、ええ」
顔がにやけているのがとてもわかりやすい。
「いえいえ、冷凍保存の仕方も教えていただきましたし」
「そ、そうですか……? ではちょっと頂いていきましょうかね……」
とっとっとと鍋へ近づいていく先輩。
足取りはとても爽やかだ。
「あ。鍋もうひとつあります?」
「ありますけど、なんでです?」
「はい。冷凍保存は冷やすが鉄則ですが、真空保存は暖かいものを入れないとダメなんですよ」
「わかりました。ええと……どうぞ」
琥珀さんは傍の棚から鍋を引っ張り出してきた。
「どうも」
カレーをその鍋に移し、その鍋を暖め始めた。
「真空保存は蒸気の力で中の空気を抜きますかね」
「へえ」
しばらくすると鍋がぐつぐつ言い始めた。
「これをこのまま……」
ルーを容器へ入れていく。
「それで蓋を閉めます」
妙な弁のついた蓋をつけ、先輩はそこの中央を押さえていた。
すると弁からしゅーしゅーと蒸気が昇り始める。
「面白いですねー」
「はい。中の空気が抜けてるって感じですよね」
その通り、蓋はへこんでいっている。
「……はい。これで完成ですね」
蒸気が出なくなったところで先輩は手を離した。
「これはどう保存するんです?」
「冷蔵庫ですね。2週間くらい保存できます。電子レンジもこのままでいけます」
「それは便利ですねー。近所のお店に売ってますでしょうか?」
「わたしの場合は通販で買ったんですけどね」
「あ、そうなんですかー」
その後しばらく俺には理解出来ないような専門用語やら調理テクなどの話題が続いた。
「そ、そろそろカレーも冷えたんじゃないかな?」
「あ、そうですねー」
「つい話しこんじゃいました」
話が終わった頃には日が暮れ始めていた。
「では早速……」
琥珀さんは鍋を持ち上げる。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「ええと……」
琥珀さんは俺に鍋の中を見せてくれた。
「……あれ?」
同じことを言ってしまった。
おかしい。
鍋にはもうほとんどカレーは入っていなかった。
と、すると。
「ど、どうしました?」
「ああ、いや、なんでもないですよ、先輩」
つまり先輩の持っている容器の中に、余ってたカレーのほとんどが入ってしまったわけである。
「そうですか? ではわたしはそろそろお暇しますね」
「はい。今日はどうもありがとうございました」
先輩は笑顔のまま去っていった。
「志貴さん。わたしは今日悟ったことがあります」
「なに? 琥珀さん」
そう言いながら俺も悟ってしまっていた。
つまり、保存とかそういうのじゃくて。
「カレーが残って困っているときは、シエルさんを呼べばいいんですね」
「……ああ」
カレーが余って困っているそんな貴方。
そう言うときは呼んでみよう、シエル先輩を。
ただ来てくれるか保証はしないし、カレーの味にはうるさいから、無難に冷凍保存か真空保存することを強く勧めておく。
俺はCMにも使えそうな、そんなフレーズを考えてしまうのであった。