俺は部屋に入ってきた翡翠を見て思わず身構えた。
「な、何故そのように警戒なさっているのです?」
「いや……」
今、翡翠が俺を呼んだ呼び方には、ある人物を連想させる要素が含まれていたからだ。
「琥珀さんの変装じゃないよね」
「……ならば姉さんを呼んできましょうか?」
「ああ、いい、うん、全然そんな事しなくていいから」
「はぁ」
翡翠は不思議そうな顔をしていた。
「遠野家ネタ会議64」
「いや琥珀さんを呼ぶとまた事件に巻き込まれそうでさ」
事件というかネタにだけど。
「好きですからね、姉さんも」
「ああ」
琥珀さんにとってはそれが大きな生きがいなんだろうなあと思う。
「……それに俺を巻き込むことも含めて」
「志貴さま、苦労されているのですね」
「はは、まあ本当に嫌なら嫌っていうからさ」
そのへんのギリギリの調整が上手いのがまた辛いんだよなあ。
仮に怒りメーターというものがあったとして、100で怒るとしたら97くらいで止めるのだ。
「まさに策士の技……」
「志貴さまの動向がわかりやすいだけだと思いますが」
「そ、そうかな」
「はい。大抵の場合においては」
「……あははははは」
思わず苦笑いしてしまう。
「志貴さまは自分に正直に生きておられますから」
「……そうかなあ」
結構色んな事を我慢してると思うんだけど。
具体的には琥珀さんとか琥珀さんとか琥珀さん絡みで。
「志貴さまが羨ましいです」
「そ、それは言い過ぎだって」
確かに翡翠は口にして自分の感情を出すほうじゃないと思うけど。
翡翠の場合は顔に出やすいんだよな。
「翡翠は偉いよ。ちゃんと自分の仕事を全うしてて」
「……それは志貴さまの身の回りを整えるために当然の事です」
口調は淡々としているが、どこか嬉しそうな顔をしている。
「あとは俺を朝眠らせたままにしておいてくれればなあ」
「心配は無用です。私がいくら起こしても志貴さまは起きてはくれませんから」
今度はまゆげを八の字にして不満そうな顔。
「いやごめんごめん」
ついからかってしまった。
「いえ、こちらこそ失礼な発言をしてしまいました」
「ううん」
一瞬会話が途切れる。
「……えと、それで翡翠は何の用だったのかな」
いらっしゃいますかと聞いてきたんだから何か用事があるはずなんだけど。
「あ、はい。留守であれば部屋の掃除をさせて頂こうと思ったのですが」
「ああ、それなら外で待ってようか?」
「そんな、わたしの都合に合わせて頂かなくても」
「いいからいいから。なんなら手伝おっか?」
「……いえ、そんな……」
「いやだから」
互いに遠慮しあう。
「……キリがないな」
俺の事なんか気にしなくたっていいのに。
「あ、そうだ。用事があったんだっけ」
だから敢えてそう言うことにした。
「用事……ですか?」
「ああ。だから部屋を空けるんだけど。その間に掃除をしておいてくれないかな」
「……志貴さま、それは」
一瞬何かを言いかける翡翠。
「いえ、承知しました。出来る限り迅速に行います」
しかしようやっと頷いてくれた。
「じゃ、頼むよ」
そう言って部屋を後にする俺。
まったく、この真面目さを姉の方にも分けて欲しいくらいだ。
「……さてと」
部屋を出たはいいが、本当の用事なんか無いわけで。
とすると選択肢は大まかに3つだ。
秋葉の部屋に行くか、琥珀さんの部屋に行くか、誰もいない部屋に行くか。
ギャルゲーだったらまず先の二つから選ぶのが普通だろう。
「だが俺は誰もいない部屋を選ぶ」
別段俺は新しイベントに飢えているわけじゃない。
ただ時間を潰すことが出来ればそれでいいのだ。
「一階の客間あたりどうかな……」
さっそくそこに向かって歩いていく。
「……誰かいませんかー」
扉を開けると中はしんとしていた。
「……ふう」
どうやら無人のようだ。
「さて……」
椅子に腰掛ける。
「ふー」
なんだか一人きりという時間は久しぶりだ。
目を閉じて体を休める。
「……」
ぼーっ。
「……はっ」
目を開く。
どれくらい時間が経ったろうか。
「……5分か」
まだまだ休めそうだな。
ぼーっ。
「……ん」
そろそろいいだろう。
「あれ?」
まだ10分?
「まだ終わってないよなあ」
なんせ翡翠の掃除は徹底的だからな。
「……もうちょっと」
11分、12分。
「おかしい……」
あの時計、壊れてるんじゃないだろうか。
時間が進むのが異常に遅い気がする。
ちっ、ちっ、ちっ。
「……こんなもんだったっけ?」
秒針はまともに動いてるみたいだけど。
「あー……」
駄目だ、ここにいるのはしんどい。
「様子を見てくるか……」
もしかしたら終わってるかもしれないしな。
「どうかな?」
ドアを開けて中を覗く。
「もう少しかかると思います」
翡翠はベッドのシーツを剥がしている最中だった。
「……みたいだね」
まだ無理か。
「うーん」
どうしたもんだろう。
秋葉の部屋か琥珀さんの部屋か。
「……琥珀さんはあり得ないな」
自分からワナにはまりにいくような愚か者ではない。
「とすると秋葉か……」
秋葉のところに何か暇つぶし出来る様なもんあったっけ?
「なければなんか考えて……」
話でもするしかないか。
「……あれ?」
ヒマだ。
ネタを考えて話しに行く。
「こ、これは……」
なんということだ。
今の俺の取ろうとしている行動は琥珀さんそのものではないか。
「考え方まで毒されてるのかっ?」
これは非常にまずい。
俺は平穏な生活を望んでいたはずなのに。
断じてネタに生きる人生など望んではいない。
そういうのは有彦とかに任せておけばいいんだ。
「俺は……俺はっ」
ネタを求めているわけじゃない。
平和を、日常をっ。
「あの、志貴さま」
「ん、ごめん。なに?」
「掃除が終わりました」
「……ああ、ありがとう」
「では」
翡翠はぺこりと一礼して去っていった。
「……うん」
どうやら俺は疲れているようだ。
ちょっと休むとしようか。
「ふー」
ベッドに寝転がる。
「はぁ……」
誰にも邪魔されない時間。
なんて幸せなんだろう。
「……」
でもきっとこの平和は崩されてしまう。
琥珀というネタが大好きな人に。
「……」
来るなら来い。
「……」
来ない?
「……はっ!」
なんだこれは。
これじゃまるで琥珀さんが来るのを待ち望んでいるみたいじゃないかっ。
「俺は……違うっ」
とにかく平穏に生きたいんだ。
事件なんか何も……
こんこんっ。
「っ!」
ノックの音がした。
「志貴さん、いらっしゃいますかー」
そしてその声を聞いた瞬間、俺は全身の細胞が活性化するのを感じた。
ああ、つまりそういうことか。
「……うん、いるけど」
「実はですねーってあれ? もしかしてお休み中でしたか?」
「うん、お休み中だった」
口ではいくら言おうとも俺は琥珀さんが来る事を待ち望んでいて。
「そうですかー。でもちょっとくらいならいいですよねー」
「えー?」
「そんな嫌そうな声出さないで下さいよ」
だからこそ琥珀さんは俺のところに来るんだろう。
「……ははっ」
ああもう、完全に琥珀さん色に染められてしまったようだ。
「どうしました志貴さん?」
「いや」
むしろ自分から望んでそうなったのかもしれない。
「変な志貴さんですねー」
「琥珀さんには言われたくないなあ」
ネタというものは一人では成立しない。
誰か他の人間がいてこそ意味のあるものだ。
そしてそういう自分が興味のある事ほど、好きな人にわかって欲しいし、聞いてもらいたいのである。
「あはっ。では今日のネタといきましょうか」
「……ああ」
だから俺は今日も琥珀さんのネタの被害に遭う。
何故って琥珀さんの事が……ああもう、これ以上言えるかっ。
ただきっと俺たちはいいパートナー同士なんだろう。
それは断言出来るような気がした。