まああんまり深く知らないほうが幸せなんだろうなあ、このへん。
「すいませーん、通りまーす」
人の隙間を抜けてしばらく進む。
「……」
と、目が線になっている志貴さんが突っ立っているのであった。
「夏コミに行く前に」
その10
『三日目当日』その2
「待たせたな、遠野」
「……あー……うん」
志貴さんはなんかもう、見るからに眠そうな感じ。
けどそんな志貴さんも可愛いかなーとかちょっと思ったり。
「ほら、遠野。アキラちゃんが来たんだからもうちょっとシャキッとしろ」
「……アキラちゃん?」
うっすらと目を開ける志貴さん。
目が合った。
「……ああ、お早うアキラちゃん。ごめんね、朝はホントに駄目でさ」
しゃべりながらもうつらうつらしている志貴さん。
「い、いえ。志貴さんこそ大丈夫ですか?」
「うん……多分会場に入れる頃には起きてると思うから」
「……」
現在の時刻は八時。
会場までまだ二時間あった。
「だ、大丈夫ですよね……?」
一応有彦さんに尋ねてみる。
「さぁな。それこそ天のみぞ知るってやつだ」
「……」
雨はますます強くなっていた。
「遠野、眠いのはわかるけど飯だけは食っとけよ。じゃないと死ぬぞ」
有彦さんがそれだけ言って志貴さんにパンを渡していた。
「うん……そうするよ」
そういえばわたしもまだご飯を食べてなかった。
「食べよっと」
コンビニで買ってきたおにぎりをカバンから取り出す。
なんせ片手に傘を持ちながらなのであぶなかしいことこの上なかった。
「……カバン持つ?」
「え?」
顔を上げると相変わらず眠そうな志貴さんの顔。
「ご飯食べ終わるまで、持ってるよ」
「あ、は、はい。お願いします」
好意に甘えカバンを持ってもらう。
ああ、やっぱり志貴さんは優しいなあ。
「はむっ……」
ご飯とパンをさっさと食べてしまい、志貴さんからカバンを受け取る。
しばらくまったりとした時間。
ザアアァ……
「うわ、わ……」
開場が近づくとともに強くなる雨音。
「外周に並ぶの辛そうだなあ……」
外周というのは壁の中でも特に列が出来る場所で、会場を出て外に列を作るサークルである。
もちろんMANAさんもその一人だ。
「先輩は東6っすか? じゃあ猫電車を……」
有彦さんは先輩とサークル周りの計画を話しているようだ。
「……寒い」
わたしは一人自分の腕を抱えていた。
本当に今年のコミケは大丈夫なんだろうか。
とても不安である。
「……大丈夫? アキラちゃん」
「え」
横を見ると志貴さんが心配そうな顔をしていた。
やっぱり眠そうな顔ではあるけれど。
「俺の服、貸そうか?」
自分の上着を脱ごうとする志貴さん。
「だだだ、大丈夫ですよっ。はい。このくらいっ」
「……そう、無理しないでいいからね……」
そう言って目を閉じる。
志貴さんは眠そうだというのにわたしのことを気遣ってばかりである。
わたしのほうがコミケでは先輩なんだから、しっかりしなくちゃ。
「あ、あの、志貴さ……」
プルルルル、プルルルルル。
「ん?」
せっかくレクチャーをしようとしたところで電話が鳴った。
電話の相手は初日に本を買ってきてもらった先輩である。
「もしもし、瀬尾ですけど……」
「あ。アキラちゃん? 今日さ、サークルチケット余ってるんだけど。よかったら来ない?」
「チケットが余ってる?」
「なにィ!」
「わっ」
即効で有彦さんが反応して来た。
「も、もしもし。今それでどこにいるんです?」
ちょっと有彦さんから離れ電話再開。
「ん。西入り口前のコンビニんところ。早めに来てね」
「え、ちょ……」
電波が悪いせいなのか、電話はそこで切れてしまった。
「……」
サークルチケットがあるということは、並んでいるよりも早く会場に入れるということである。
そして先輩には初日の本を買ってもらった恩もある。
「あ、わたしすいません、ちょっと西に行かなきゃならなくなってしまって」
わたしは有彦さんにそう伝えた。
「そうか、わかった」
「ごめんなさい。志貴さんのこと宜しくお願いします」
「おう。じゃ、ちっとばかりアキラちゃんに頼まれて欲しいんだが……」
一般参加者がサークル入場をすることイコール本を買いに廻りに行かされるということである。
「……なんでしょう」
「犬小娘亭ってのがあるんだけど。そこだけ頼まれてくんねえかな。一冊でいいから」
「わ、わかりました。善処します」
「頼むぜっ。じゃあなっ」
有彦さんは無駄にいい笑顔を浮かべていた。
「は、はい。ではっ」
わたしは列を抜け西に駆け……られないので歩いていく。
コミケ開催時の東京ビックサイト付近で駆けるのは非常に危ない。
そこいらじゅうに人が歩いているからだ。
それに速攻でスタッフに注意されてしまう。
「うう、早歩きって走るより辛い……」
「うわっ! サークル入場締め切りまであとちょっとしかないしっ!」
東一般入場列を作るのが終了した、八時五十分ごろの出来事である。
わたしは雨に濡れながら全力で歩いた。
「はぁ……はぁ」
コミケ名物地獄の長階段を昇り終え西館入り口前に到着。
「ええと、先輩は……」
歩いていくと、ちょうど電話をかけようとしている先輩の姿を見つけた。
「猫美せんぱーい」
「お」
先輩もこちらに気づいたらしく、わたしのほうへ向かってきてくれた。
「悪いねギリギリで呼んじゃって。ホントは別に来る奴がいたんだけど連絡付かなくってさ」
「コミケは電波悪いですからね……」
それでも近年のコミケはマシになったらしい。
電電公社(古)と簿田電話が電波を発生させるための車をわざわざ持ってきているからだ。
その出張費は多分コミケ運営委員が出してるんだろうなあ。
恐るべしコミケ。
「で、アキラに協力して欲しいんだ。とりあえず歩きながら話そう」
「はい」
二人揃って早足で入り口へ歩いていく。
本当に時間ギリギリって感じだ。
「一箇所だけ廻って欲しいんだよ。そこが終わったら自由でいいから。あたしの友達のサークルに集合」
「友達の……ひじりんぼっくすさんですか?」
「そうそう。閉場前にはそこに行くと思うから。あたしは別で手伝いがあるんよ」
「はー」
先輩も先輩でなかなか忙しい人なのである。
「で、どこに行けば」
「ん。Aの63……だったかな」
Aの位置は壁。
つまり大手サークルだ。
「な、なんて名前です?」
「F6企業」
「……聞いた事あるような無いような」
あいにく三日目のサークルにはてんで詳しくないのである。
「某A社の原画の人って言えばわかるかな」
「……超絶大手じゃないっすか」
サークル配置表を見てもわかる。
その位置は外壁、外に列を作らなくてはいけないほどの大手サークルでないといられない場所だった。
「うん。多分一部限だと思うから」
「い、一部限っ?」
一部限、つまりお一人様本を買うのは一部限定。
超超絶大手サークルがなるだけ多くの人に本を買って欲しいときに使う手段のひとつである。
「……わたし三日目初めてなんですけど」
「大丈夫、おまえならやれる」
「あうぅ」
先輩は無駄にわたしに期待してくれていた。
「うまくいったらボーナスやるから頑張ってくれ。じゃ、あたしはこっちだから」
「あ、ちょっと……」
猫美先輩はわたしの行かなくてはならなくなってしまった東123とは逆の456ホールへ行ってしまった。
「……ど、どうしよう」
瀬尾晶、初の三日目参戦は波乱のスタートのようである。
続く