わたしは真夏の炎天下、死ぬほど厚くて重い本を持って歩いていた。
その本の名前はコミケカタログ。
「今年も……きたなぁ」
そう、今年も夏コミの季節がやってきたのである。
「夏コミに行く前に」
「はー」
ようやっと寮の部屋へとたどり着き、本を床に置いた。
ごすっ。
いかにも「鈍器」な音が響く。
毎度思うけど、これで人を殴ったらどうにかなってしまうんじゃないだろうか。
「……しかしまぁ今回の表紙は……」
普通の書店でもコミケカタログを置いてあるところはある。
大人しめの表紙の時はまあ、まだ違和感がないといえるんだけど。
「今回は……ようじょかぁ」
幼女でなくようじょ。
大きなお友達に大喜びされそうな表紙である。
「まあこれくらいいつものことだし」
今回はこの絵のパスネットまで発売されるらしい。
恐るべきコミックマーケットといったところだろうか。
夏のコミックマーケット、通称夏コミ。
東京ビックサイトで開催され、一日何万という人が来場し同人誌を売り、買っていく日本最大級の同人誌即売会だ。
同人誌を知るものでコミケを知らない人間は恐らくいないだろう。
「……今回は入場待機列が変わるんだ」
まず最初に書いてある諸注意を読む。
これは基本中の基本だ。
イベントによって微妙な違いがあるし、ちゃんと読みやすくかつ中身のある文章になっているので読んでいてなかなか面白くもある。
というか読まないと変な場所に行ってしまったりして損をするのは結局自分なわけだ。
「なるほどなるほど……」
ここはまあイベント開始直前に読んでもいいし、買ってすぐに読んでも損はないページだと思う。
さらにページをめくっていくと一日目のページが。
一日目のメインはFC(飛翔)ゲーム、その他である。
飛翔は少年向け週間雑誌。
だから同人誌も少年向けが多いのかと知らない人は思うかもしれない。
けど現実は全く違う。
「さあ、チェックしなきゃっ」
一日目のメインはむしろ女の子、いやお姉さん方だ。
同人誌を作るのもお姉さん、買うのもお姉さん。
女8、男2くらいの比率なのである。
友情を語り合う男たち。
時にはぶつかり合い、そして理解しあう。
少年愛、ボーイズラブ、萌えっ! みたいな。
ちなみにこの「萌え」なる単語も同人業界では基本事項で好き、たまらないといった感じの心理を表現した言葉である。
覚えておいて損はない。
得もなさそうだけど。
そのへんの話は一日目のサークルのお姉さんに話かければ延々と語ってくれることだろう。
「……今年は卓球の王子様もハガテンも多いなあ」
卓球の王子様は週間少年飛翔で連載されているマンガだ。
名前の通り主人公が卓球を通じて成長していくストーリーなのだがサブキャラ、敵キャラも大人気でサブキャラオンリーイベントなども行われている一同人ジャンルと言える。
夏コミでもビックサイト東館会場の七割を占めている恐ろしいジャンルだ。
次のハガテンというのは鋼の天才術師の略で、何年か前から急に同人誌が盛り上がってきた漫画だ。
「……やはり軍服は強しか」
軍服と白衣は女のロマン。
このマンガには軍服を来た人々がそれこそ盛りだくさんなのだ。
アニメ化も果たし、今もっとも旬なマンガである。
「うわ、すごいきわどい絵が……」
そしてもちろん一日目にも男性向け、ちょっとえっちな絵のサークルもあったりする。
体操着やセーラー服。夏だから水着も多い。
「この表情はわたしには描けないなあ……」
微妙にえっちな絵の表情というのはわたしは描けないので正直尊敬してしまう。
そしてまたそういうサークルにだけ男の人の列ができたりするのがまた面白いところだ。
こんこん。
そこへノックの音がした。
「はい?」
普通の人だったらこんなものを見られたら死ぬ。
わたしは慌ててカタログを後ろに隠した。
「アキラちゃん? 羽居だよ〜」
「あ。羽居先輩ですか」
羽居先輩は遠野先輩を通じて知り合った先輩の一人である。
ちょっと前にわたしが同人誌を作ったときに色々とお世話になった。
「どうぞ、開いてますんで」
今は同室の女の子も帰省中なのでこの部屋にはわたしひとりきりなのだ。
「お邪魔しまーす」
ぴょこんと羽居先輩が部屋へ入ってくる。
「どうしました? 先輩」
「えっとね。お友達から電話があったの。それで聞きたい事があってちょっと」
「はぁ。なんでしょうか」
「アキラちゃん、こみけかたろぐ、って持ってる?」
「え」
心臓が飛び出るかと思った。
あの羽居先輩からコミケカタログなんて言葉が出てくるとは。
「い、一応持ってますけど。なにゆえ?」
思わず変な口調になってしまった。
「うん。お友達が夏こみっていうのに毎年参加して本を売ってるんだ。わたしも応援に行ってるんだけど、いつも迷っちゃって。こみけかたろぐがあれば迷わないかもって教えてくれたの」
「あ。知り合いでサークル参加してる人がいるんですか」
「そうなんだ。手芸関係で知り合ったの」
「そうなんですか……」
なるほど、知り合いにサークル参加している人がいれば同人に関しての理解が早いはずだ。
「わかりました。じゃあ探しますよ。参加する日とか名前、わかります?」
「うん。えーと、一日目でー。Aのー」
「Aの……」
Aは確か東456の最初のはずだ。
……ってことはもしや壁?
「Aのどこだったか忘れちゃったけど……MANAってサークルさん」
「ま、ままままま、MANAっ?」
わたしは思わず大声を上げてしまった。
「知ってるの? アキラちゃん」
「し、知ってるも何も、そこは……」
一日目の女性向けカリスマサークルMANA。
そのサークルの同人誌を欲しいがために炎天下の太陽の下、人々がそれこそ何キロという長蛇の列を作る。
それでも本が買えるかはわからない。
それほどの超絶人気サークルがMANAなのだ。
ちなみに二日目三日目にもそれぞれカリスマサークルが存在するけどとりあえずは割愛。
わたしもそこのサークルの本を欲しいけれど涙を呑んで我慢した思い出がある。
「つ、つかぬことを伺いますが、何かそのMANAさんのアイテムとか持ってますか?」
「えーと。部屋に本は一通りあるよ。あと描いてもらったスケッチブックも」
「マジッすか!」
思わず体育会系になってしまった。
「うん。見せてあげよっか?」
「是非にお願いしますっ!」
ああ、なんていい人なんだろう羽居先輩は。
「あ。でも秋葉ちゃんに貸しちゃったんだっけ」
「な、なんですとっ?」
こんなところにまで遠野先輩の魔の手がっ?
「遠野先輩は確か今……」
「うん。実家に帰省中」
「うわぁ……」
ああ、夏休みが始まる前にその話を聞いてさえいれば。
後悔は過ぎ去ってからするから後悔なのであった。
「でもスケッチブックのほうはあるから。今持って来るねー」
「は、は、はいっ。お願いしますっ」
あのカリスマサークルが描いたスケッチブック。
それだけで実はもう値打ちモノなんじゃないだろうか。
「じゃあ行ってくるねー」
羽居先輩はスキップしながら部屋を出て行った。
「楽しみだなあ」
わたしもスキップしたい心境である。
「……あ、そうだ」
そして気がついた。
「もうそろそろタイムリミットなんだなぁ」
七月下旬。
コミケに本を出す人たちにはこの辺りがタイムリミットなのである。
ここを過ぎればもう本は出せない。
「……知り合いさん、ちゃんと入稿終わっていればいいけど」
なんだか急に心配になってしまった。
「見てみよう……」
そう思い、カタログ片手にパソコンを起動するのであった。