先輩は無駄にわたしに期待してくれていた。
「うまくいったらボーナスやるから頑張ってくれ。じゃ、あたしはこっちだから」
「あ、ちょっと……」
猫美先輩はわたしの行かなくてはならなくなってしまった東123とは逆の456ホールへ行ってしまった。
「……ど、どうしよう」
瀬尾晶、初の三日目参戦波乱のスタートのようである。
「夏コミに行く前に」
その11
『三日目当日』その3
「……ひじりんぼっくすさんにとりあえず行っておこうかな」
超絶大手に並ぶ事になってしまったから、これを逃すといつ会えるかわからなくなってしまう。
どうせまだ開場までは時間があるんだし、それくらい大丈夫だろう。
「うわっ」
そう思って東館に入った瞬間、謎の人壁が出来ていた。
「な、なんだろこれ……」
男の人だけで構成された万里の長城のような壁。
「……よし」
君子危うきに近寄らずということわざもあることだし、ここはひとつ見なかったことにしよう。
早々と結論付けて歩いていく。
「篠沢さーん」
「あら? アキラちゃん。何でこんなトコにいるのかしら? いつも三日目はお休みなのに」
篠沢さんは一日目を友人のお手伝い、三日目は自身でサークル参加という凄いバイタリティのある人なのである。
「はい。まあ色々ありまして。今日は猫美先輩にサークルチケットを頂いたんです」
「ああ。猫美にね。そりゃ大変そうだわ」
猫美先輩と篠沢さんは同い年(大卒OL)の知り合いなのだ。
ちなみに猫美先輩は本名だけど篠沢さんはペンネームなのでさん付けである。
篠沢さんの本名のほうは知らなかったり。
「はい。F6企業ってとこに行くように頼まれました」
「……猫美も酷い事するなあ」
「え」
もしかしてそこって超絶大手の中でも得に混むサークルなんだろうか。
「まあアキラちゃんなら大丈夫かな」
「あ、あはは」
わたしって一体どういう風に見られてるんだろう。
「でも、急いだほうがいいかもね。あっちのほうに列できたでしょ?」
「列って……あの人壁ですか?」
「そうそう。あれシャッター開き待ち列だから。あそこ並ばないとF6にはいけないよ」
「……マジッすか」
「大マジ」
ああ、また眩暈が。
「じゃ、じゃあわたし、ちょっと逝ってきます……」
わたしは苦笑しながらそう伝えた。
「うん。わたしもちょっと最初は相方にサークル任せて犬小娘に行ってこようかなと」
「犬小娘」
それは聞いた事のあるフレーズである。
「知ってるの?」
「ええ。ちょっと知り合いに頼まれまして……」
「そうなんだ。じゃあわたしついでに買っておこっか?」
「い、いいんですか?」
「うん。そのほうが効率いいじゃない」
「あ、ありがとうございます……」
篠沢さんは本当にいい人だ。
スケブを頼んでも毎度書いてくれるし。
「じゃ、そういうことでお互い頑張りましょ」
「は、はいっ」
お互いそれぞれ目的の場所へ向かって解散。
「……増えてるし」
人壁に戻るとさっきよりも量が増えていた。
ちなみにこの壁、長机30個ぶん以上の長さがあったりする。
「並ぶしかないかぁ……」
とりあえずその最後尾に入った。
周りは当然のごとく男の人ばかりである。
「あそこのシーンでパンチラがさぁ……」
「たまんねぇよなぁ」
聞こえてくる会話はヲタクっぽい会話ばかり。
「うう……」
いけない、この空間に一人だとくじけてしまいそうだ。
ぶるるるるるるる。
「わっと」
サイレントモードの携帯がポケットの中で揺れていた。
着信の相手は有彦さんだ。
「もしもし? 有彦さんですか?」
「いや、俺なんだけど」
「し、ししし、志貴さんっ?」
思わず大声をあげてしまった。
周囲の視線が痛い。
「ど、どうしました?」
声のボリュームを下げて尋ねる。
「いや、アキラちゃんの姿が見えないからさ。有彦は会場の中だっていうけど、そんなはずないだろうしさ」
「あ、それほんとなんです。色々あって今会場内にいるんですよ」
「え? そうなの?」
遠くから有彦さんが「だから言ったじゃねえか」と言っているのが聞こえた。
「ほ、ほんとだったったんだ。じゃあもう本を買ってたりするの?」
「いえ、それはまだなんです。正式な開場は十時ですから」
「そっか……ん? なんだ有彦。ちょっと待って……」
しばしの間。
「おう。アキラちゃん。俺だ。有彦」
どうやら電話を代わったらしい。
「どうしました?」
「ん。どうだ? 中の様子は」
「すごく蒸し暑いです……外とは全然違う世界ですね」
外は寒いくらいだったというのに。
中は熱帯のようであった。
「そっか。犬小娘はいけそう?」
「それなんですけど、わたしちょっとF6企業ってところに行かなくちゃいけなくなりましてですね」
「……そいつぁ……お疲れさん」
有彦さんの声は慈愛に満ちたものだった。
辛さを知ってるからこそ、みたいな感じの。
「うう、そんな大変なところなんですか……」
「まあうまくいきゃ早いとは思うけどな。じゃあどうすっかな……自分で行くか」
「あ、いえ。わたしの知り合いにちょっと頼んでおいたんで。大丈夫だと思います」
「お? そうなのか? 悪いな、わざわざ」
「いえいえ。有彦さんも頑張ってくださいね」
「おう。じゃあもっかい遠野と代わるな」
「あ、はい……」
またしばらくの間。
「アキラちゃん。大丈夫? なんか大変なところに並ぶみたいだけど」
「だ、だいじょうぶ……だと思います。それに、わたしよりも志貴さんのほうが大変だと思いますし」
なんせ志貴さんはコミケ自体初めてなのだ。
しかも最初に行くサークルがMANAさんってんだからさあ大変と。
「そ、そっか。うん。じゃあお互い頑張ろう」
「はいっ」
志貴さんにそう言われるとやる気倍増って気がした。
「それではこれから列の移動を開始しまーす」
「おっと……なんか移動するみたいだ。じゃあ、とりあえず切るね」
「は、はい。ではっ」
電話を切ってから集合場所を決めてなかった事に気がついた。
まあ後で連絡すればいいか。
「はい、列を移動しまーす」
こちらもどうやら列が移動するようだ。
「……結構動くんだなあ」
あんなにあった人壁が、みるみるうちにシャッターの外へと消えていった。
「まだ雨は止まないか……」
まだしとしとと雨が振り続けている。
外へ出ると途端に空気が冷たい。
「……えっと」
シャッターの外へ出ると、各自色んな方向へとばらけていっている。
どうやら後は自分の行きたい場所に並んでしまっていいようであった。
「ええと、F6企業は……」
わたしもとりあえず列を探す。
確か今入ったところが東の2で、F6企業は東の1だから……
「F6企業最後尾こちらになりまーす」
「え」
なんと目の前に探していた列の最後尾があるのであった。
「っていうかここ東2ですよ?」
東1までどれだけ距離があると思ってるんですか?
わたしは誰に言うわけでもなくそうひとりごちてしまうのであった。
続く