一瞬何を言われたのか理解できなかった。
けどすぐに我に返って。
「お、おね、おねおねがい、しま、しましましま、しますっ」
ラブレターでも差し出すようにスケブを差し出した。
いつもイベントにはスケブを二冊持っていくのがこんなところで役にたつなんてっ。
「オッケー。じゃまあ、ちょっと時間貰うよ……」
わたしの目の前で、イチゴさんのペンがそれこそ舞うように動き出すのであった。
「夏コミに行く前に」
その18
『三日目当日』その10
「うふ、うふ、うふ、うふふ……」
わたしはスケブに描かれた絵を見ながら笑いが止まらなかった。
このスケブに描かれた絵というのは、たったひとりのためだけに作者さんが力を込めて描いてくれたものだ。
その一角に今、乾一子さんの絵があるのである。
「気持ち悪い笑い方しないでくれよ」
煙草をくわえながら苦笑しているイチゴさん。
「あ、ご、ごめんなさい」
「まあ、喜んで貰えて嬉しいけどね」
「よかったね〜。アキラちゃん」
「は、はいっ、これも羽居先輩のお陰ですっ」
「え〜。そんな〜。照れちゃうな〜」
頬を赤らめている羽居先輩。
「これがいわゆる萌えってやつか……」
「志貴さん、変な勉強の仕方をしないで下さい」
「あ、いや、つい」
そりゃあ天然キャラって萌え要素が盛りだくさんだけどっ。
「ちなみに三澤がウチのスタッフになった理由ってそれなんだけどね」
「……マジですか」
「冗談」
「うう」
どう反応してよいのやら困ってしまう。
「イチゴさん、俺ならともかくアキラちゃんをいじめちゃかわいそうだよ」
「悪い悪い」
豪快に笑うイチゴさん。
「さて、そろそろサークルに戻らにゃまずいかね」
ちょうどそこで煙草がなくなり、イチゴさんは立ちあがった。
「すいません、わざわざ貴重なお時間を」
「いやいや。気にしなさんな。あ、ただあたしがMANAってことは秘密にしておいてくれよ。あたしゃ面倒ごとは嫌いでね」
「あ、は、はい。もちろんです」
「それから、さっき言った言葉、よかったよ。それを忘れないように」
「は、ははは、はいっ!」
同人で大切なのは何よりも楽しむ事、人に楽しんでもらえる事。
「それさえ忘れなきゃま、うまくやってけるさ」
「が、頑張りますっ」
これはわたしも張りきって同人活動をやらなきゃならない。
「んじゃそういうことで。あと有間。うちのバカに後で来るように言っといてくれないか?」
「有彦に?」
「ああ。荷物持ってって貰うからね」
「……大変だなあ、有彦も」
「なに、弟冥利に尽きるってもんだよ」
どこまでもアネゴ肌なイチゴさんであった。
「はぁ……」
イチゴさんが去って行き、わたしは呆けていた。
「いや、びっくりしたな。まさかMANAさんがイチゴさんだったなんて」
ぽつりと呟く志貴さん。
「ほんとですよ。有彦さんのお姉さんで、志貴さんの知りあいだなんて出来すぎです」
「俺たちが二人で行かなきゃ、絶対わからない事だったんだろうな」
「かもしれないですね……」
わたし一人だけだったら、この先もただの凄い大手という認識しかずっとなかったんだろう。
「運命ってやつかな?」
「運命ですか……」
「だとしたら俺とアキラちゃんが出会った事がそもそも運命だった……とか」
「え? えええええっ?」
それはあれですか? 告白へ直行コースってやつですか?
「し、志貴さん……」
「……アキラちゃん」
見詰め合う二人。
「……ずいぶんと楽しそうな話をしていますねえ、兄さん」
ぴきっ。
周囲の温度が十度くらい下がった気がした。
「え? いや、ちょっと待ってくださいよ」
ここはコミケ会場ですよ?
お嬢さまとかメイドとか一番関係ない……いや、別の意味であるけど。
「な、ななななななな、なんで秋葉がここに?」
後ずさる志貴さん。
「あはっ。何をおっしゃってるんですか志貴さん」
「こ、琥珀さん……」
遠野先輩の隣に立つのは羽居先輩と同じチャイナ服に身を包んだお姉さん。
「いえね、ちょっと秋葉さまにお話をしただけなんですよ。後輩の女の子のために志貴さんが人肌脱いだって」
「……だ、黙ってってって言ったのに」
「そんなー。こんな楽しそうなイベントに参加させてくれないなんてずるいですよ」
「姉さん。志貴さまにはわたしたちが来る事は全て承諾済みとの話では……?」
メイドのお姉さんが困った顔をしている。
「え? そんなこと言ったっけ? わたしちょっと最近物忘れが激しいからー」
「……姉さん……」
なんだかそのお姉さんの背中に悪魔の羽が見えたような気がした。
「ねえねえ秋葉ちゃん。どうして秋葉ちゃんがここにいるの?」
そこに癒し系筆頭羽居先輩が絡んでくる。
「なっ? は、羽居っ? なんであなたがここにっ!」
「え? わたしは普通にサークルのお手伝いでー」
「うわっ。よく見たら格好が被ってるじゃないですかっ! しかもそっちのほうがスタイル抜群によさげな感じですし」
「うん、それは俺も思った」
「兄さんっ!」
「志貴さま……」
即座に反応する遠野先輩とメイドさん。
「お。こんなとこにいた。おいこら遠野。姉貴が本を……って。うわ、秋葉ちゃん、こんなところで奇遇……と飛びきりの美人チャイナとメイドがっ?」
さらに有彦さんが現れて。
「嫌ですよー。巨乳美人だなんて本当の事をー」
「誰も言っていないと思いますが……」
「兄さん! そんなに胸がいいというんですかっ! 胸なんてただの脂肪のカタマリ、飾りですっ! どうして偉い人にはそれがわからないんですかっ!」
「あ、秋葉、落ちつけ、意味がわからないぞっ!」
「おいこらバカ。そっちは既刊だ。新刊も持ってけっつったろ。荷物も」
「うわっ! 姉貴てめえサークル抜けてきていいのかよっ」
「知らん」
イチゴさんまで現れる始末。
「だ、誰ですか兄さんこの人はっ?」
「いや、有彦のお姉さんで」
「イヤラシイ関係をしてたりする」
「ぬ、ぬわんですってえっ!」
「ちょ、ちょっとイチゴさんっ?」
「ん、いや冗談だったんだけど」
「相手が悪いってっ!」
「み、皆さん落ち着いてください」
「あはっ、もっとやっちゃえー」
まさに人間関係が最高に入り組んだ瞬間。
「あは、あはは、あはははは……」
わたしはマンガのような展開を見ながらただ苦笑するしかなかったのであった。
続く