そう、私のお金を奪って逃げた弓塚さんの声だ。
「あ……」
私と弓塚さんの目があった。
弓塚さんはしばらく私をじっと見つめた後、恐ろしい事を言ってくれた。
「美味しそう……!」
「トオノの為に鐘は鳴る」
その19
「な、な、なっ……」
この私が美味しそうですって?
ま、まさか弓塚さんにはそういう趣味が!
「……」
危険を感じてじりじりと後ずさる私。
「逃げないでよ猫さん、何も怖くないよー?」
「……猫?」
弓塚さんの言葉を聞いてはっとした。
そうだ、今の私は猫又姿なんだっけ。
「……って猫を食べようとするのもおかしいでしょ!」
普通はそんな事考えないはず。
「ほら、おいでよー」
「な、なんですかそのヨダレはっ!」
どうも弓塚さんは空腹のあまりおかしくなってしまっているようだ。
「落ち着いて! 冷静に話し合いましょう! ねえ!」
「うふふふふ……」
駄目だ、話が通じる状態じゃない。
「ここは……逃げる!」
私はこの体になって得たジャンプ力で空へ飛んだ。
「あははははは!」
「……は?」
ところが次の瞬間には弓塚さんの手に掴まれていた。
い、一体何が?
「いっただきまーす」
「……ってそんな事考えてる場合じゃ!」
弓塚さんの口が大きく開いて……きゃー! きゃー!
がぶ。
「……ぐふっ」
抵抗空しく噛み付かれてしまった。
意識が遠のいていく……
「秋葉! 秋葉!」
ん? この声は……?
「秋葉! 無事かっ!」
「ま、まさか兄さん? 兄さんなんですか?」
この声を聞き違えるわけがない。兄さんの声だ。
「気がついたか秋葉。無事でよかった」
「兄さんこそ……今までどこにいらしてたんです?」
「それは秘密だ。勇者の仕事だからな」
「なんだか都合のいい職業ですね……」
確かに勇者の仕事というのは細かく語られるものじゃないと思うけど。
気付いたらすごい悪者を倒してました、終わり。
都合の悪い部分はどこかへ消え去ってしまう。
見知らぬ人の家に勝手に入り込んで道具を奪って去っていったりしてるかもしれないのに。
まあ兄さんはそんな事してないでしょうけど。
「それにしても秋葉、綺麗になったな」
「……は?」
今兄さんなんて?
「いや、ほんとびっくりしたよ。ちょっと会わないうちにこんなに綺麗になってるだなんて……」
「なななな、なななななな……」
あの兄さんが私を綺麗だと?
まさかこんな事を言ってくれる日がくるだなんて。
ああ、秋葉は幸せです。生きていてよかった。
「に、兄さんこそ、その、かっこよくなって……」
私がそう言うと兄さんははにかんでくれた。
そしてすぐに残念そうな顔に変わる。
「……ごめんな。俺はもう行かなきゃいけないんだよ」
「そ、そんな! 待ってください! せめて住所と電話番号を……」
口にしてから支離滅裂な事を言ってる事に気がついた。
放浪している兄さんに住所なんてあるわけないじゃないの。
携帯電話は持ってるかもしれないけれど。
「教えて欲しいのか?」
ところが兄さんはそんな私をさらに混乱させるような、眩しい笑顔で笑っていたのである。
「あ……」
思わず見とれてしまう。
「教えて欲しいのかい?」
「は、はい……」
操られているかのように頷く私。
「いいのか? だって俺は……」
次の瞬間、兄さんの笑顔が何やら怪しい感じに歪んできた。
「琥珀ですからー。あはっ」
そしてなんと琥珀の顔に変わったではないか!
「げっ!」
思わず品の無い叫び声を上げてしまった。
「兄さんこそかっこよく……ですか。本物の志貴さんに聞かせてあげたかったですねー」
「ちょ……琥珀! 今のは一体何なのよ!」
確かに兄さんの声で兄さんの姿が見えたのに!
「ふっふっふっふ。映像はメカヒスイちゃん内臓のホログラフィです。音声も無論合成ですよー」
「はっはっは」
琥珀の隣には兄さんの声で無表情に笑うメカヒスイがいた。
「だ、騙された……」
よく考えて見れば兄さんがあんな事を言うはずがなかったのだ。
理想を追い求めすぎて本質を見失ってしまっていたのだろう。
「……騙された?」
そう、それで思い出した。
「琥珀! よくもインチキなクスリを売ってくれたわね! 全然効かないじゃないの!」
「効かなかった? そんな事はありませんよ。ほら。体を見て下さい」
「……?」
五本指の揃った手。足。
平坦な……もとい、まだ成長途中の胸。
「……戻ってるわ……」
クスリを飲んだ時はてんで効果がなかったのに。
「このように、秋葉さまが気絶すれば元の姿に戻れるのです」
「気絶……そうだ、弓塚さんはっ?」
空腹のあまり錯乱した弓塚さんに噛みつかれて私は気を失ってしまったのだ。
「弓塚さんは秋葉さまの血を吸って満足そうに去っていかれましたよ」
「血?」
「はい。弓塚さんは吸血鬼ですから」
「ちょ……!」
さらりととんでもない事をほざく琥珀。
「それは大問題じゃないの!」
「何故ですか?」
「だ、だって……」
吸血鬼に噛まれたものは吸血鬼になってしまうはず。
「ああ、吸血鬼化の事なら無問題です。真祖は吸血鬼の親戚みたいなものですので」
ここで琥珀の言う真祖というのはあの猫又状態の事だろう。
「……あの姿だったから大丈夫だったわけ?」
「ええ。よかったですねー。人間だったらアウトでしたよ」
「よかったですねー……じゃないわよ! あの姿じゃなかったらそもそも襲われなかったでしょう!」
あの姿のせいで弓塚さんが美味しそうとか訳のわからない事を言い出したのだから。
「それは結果論ですよ。ちなみに弓塚さんに噛まれたおかげで真祖状態の時に新たな力が使えるようになりましたので」
「真祖状態の……ってまたあの姿になれっていうの?」
「水に入れば真祖の姿。気絶すれば元の人間にです。どこぞの中国修行場みたいですねー」
「……」
猫溺池ってところだろうか。
「とにかく真祖状態の時に得た新たな力、それは……」
「それは?」
琥珀の意味ありげな言い方につい耳を傾けてしまう私。
「体が柔らかくなりました。ほふく前進で移動できるようになりましたよー」
「それって別に噛まれなくても出来たんじゃない?」
「……」
「……」
「……えへ」
「えへ、じゃありません!」
それじゃただの噛まれ損じゃないの!
「だいたい気絶すれば人間に戻るじゃないわよ! そんな事をしてたら体がもたないでしょ!」
「ちっちっち。そこでこれの出番なわけですよ」
そう言って「幸せの果実」を取り出す琥珀。
「これを食べれば即座に気絶。いつでも人間に戻れるのです。一つ差し上げますね」
そして私にそれを差し出してきた。
「こんなものいらないわよ」
何が楽しくてまたあの姿にならなきゃいけないんだか。
「おやいいんですか? この先にある『虎への道』には凶暴なネコアルクがたくさんいるんですよ?」
「虎なのにネコアルク?」
「細かい事はいいっこなしです。現在トウサキの村に行くにはその道を通るほかありません。ネコアルクは仲間意識が強いので同族に襲いかかる事はないですが……」
「……わかったわよ。貰っておくわ」
アルクェイドさんを元に戻すためにはトウサキに行かなきゃ駄目だろうし。
「はい、どうぞー」
渋々ながらそれを受け取る私。
「……?」
はて、何故トウサキに行かなければいけないのだろうか。
別にアルクェイドさんなんてあの姿でも構わないじゃないの。
「風の噂によるとトウサキに志貴さんらしき人物が立ち寄ったらしいそうですね」
考えていると琥珀がそんな事を言った。
「……なんか都合のいい話じゃない?」
「そんな事はありませんよー。志貴さんがそう行動しただけの事です」
「……」
結局トウサキに行くしかないわけか。
「幸せの果実はそのへんのお店でも買えます。適当に数を揃えておくといいですよ」
「……はいはい」
なんだか琥珀の思うがままにされてる気がするけど、今の私にはそれしか進む方法はなかった。
「あと、ここの温泉はかなり効き目がありますんで入っていったらどうですか?」
「冗談。クガミネ温泉なんて気持ちの悪いものに入るわけがないでしょう」
「あ。それ古い情報ですね」
琥珀は苦笑いしながらこんな事を教えてくれた。
「確かに久我峰さんがここの温泉町を作ったんですけれど、悪事が酷いんで追い出されちゃいました。今はダイテイト温泉って名前になってるんですよ」
「……そうなの」
どこに行ってもバカはバカという事か。
「のぞき、盗撮、その他一切ありませんのでご安心をばー」
「そこまで言われると逆に入りたくないわね……」
とはいえ久我峰の顔を拝まずに済んだのはありがたい。
あいつの顔ときたら見ただけで寒気がするもの。
今頃どこで何をしてるのやら。
「とにかく……あんな奴の事より兄さんよ」
兄さんのためなら再び猫又姿になることも厭わない!
「さすが秋葉さま。志貴さん思いですねー。きっといつか気持ちが伝わりますよ」
「なぐさめでもありがとうと言っておくわ」
琥珀の言葉に苦笑しつつ、私はその場を後にするのだった。
「……ふっふっふっふっふ。またしてもうまくいきましたねー」
「イエス、マスター」
続く