俺は目の前の光景が信じられなかった。
翡翠の頭につけたフリフリの傍にある耳のような物体。
もっと言えば犬耳。
猫ではなく、犬の耳だ。
そして僅かに見えるのは尻尾。
色々と突っ込みたいところはあったが俺の最初のセリフは決まっていた。
「琥珀さんの仕業かっ! ちょっと待ってろ!」
よりにもよって翡翠を自分の趣味に染めるとはなんてすばら……酷い事を!
「お待ちください」
ところが翡翠に呼び止められてしまった。
「これはわたしが自分でやったのです」
「な、なんだってー!」
「わんこ翡翠」
「さては琥珀さんの変装だな!」
どうもおかしいと思ったらそういう事だったのか!
「ち、違います」
「ええい! 正体を見せろ!」
琥珀さんだと思ったらもう遠慮は無用。
こんな犬耳なんか取ってやる!
「……し、志貴さま、お止めください……」
「う」
いや違う。
この反応は本気で怖がっているようだ。
「……えーと」
落ち着いて確認しよう。
「本当に翡翠?」
「はい」
「さしすせそのせは?」
「……何の事でしょう?」
「ボケもなしか……」
どうやら本物らしい。
とすると確認すべきは。
「どうしてそんな事を?」
「姉さんに言われたのですが」
やっぱり原因は琥珀さんか。
「物事の本質はその役割を実際にやってみないとわからないと」
「ふーん」
言っている事は一見マトモである。
やはり相手が翡翠だからなんだろうか。
「でも、それと犬と何の関係が?」
「はい。犬とは主人に服従するものです」
「……まあ、そうだな」
「ですからメイドとして主人に属する身であるわたしもいかにして主人に尽くすかということを考えた際に」
どうでもいいけど珍しく翡翠が多弁である。
「えーとつまりどういう事?」
「犬として主人に使える事で、よりメイドとしての質が高まるのではないかと判断したのです」
「……」
一体何をどうしてどうなったらそういう結論になるんだろう。
あの姉ありにしてこの妹ありなのか。
「俺はどうすればいいわけ?」
さしあたって俺に被害がなければ特に問題はない。
むしろ犬っ子というのは新しい属性かもしれないからな。
「ですから犬と同じような扱いをして頂ければ」
ここで即座にえろい思考が出てくる俺は駄目人間である。
だってしょうがないじゃない、男の子だもんっ!
「……えーと」
まあ翡翠相手にそんな事をするわけもいかない。
「翡翠」
「わん」
既になりきっていた。
「……」
さてどうしたものか。
主人として命令をしたら従ってくれるのか。
「じゃあ、掃除を……」
そう言うと翡翠はふるふると首を振った。
どうやらそういう意味ではないらしい。
とすると犬として命令すればいいんだろうか。
「お、お手?」
「わん」
グーに丸めた手を乗せてくる翡翠。
どうやらそれで正しかったらしい。
「……」
しかしなんだろう、この感覚は。
「お、おまわり」
「わん」
くるくる。
「……」
何故か翡翠を猛烈にいぢめたくなってくる。
おかしいな、サドっ気なんかないはずなのに。
とか言ったらものすごい反発されるんだろうなあ。
「お、おすわり」
「わん」
従順に座る翡翠。
ご丁寧に犬の座り方、つまりM字だ。
「おおう」
翡翠のこんなポーズを見られるなんてっ!
ああ俺は今琥珀さんの気持ちが激しくわかる。
翡翠ちゃんかわいい、萌え、もええええええっ!
「……わん」
翡翠は戸惑ったような声をあげた。
おっといかんいかん。
主人たるものもっと凛然としてないとな。
「えーとじゃあ翡翠、立って」
「わん」
立ち上がる翡翠。
よく考えたら犬が立つって妙な話なのだがそんな事はさておいて。
「お手」
もう一度お手。
「わん」
答える。
「おまわり」
「わん」
くるくるくるっと。
「いい子だ翡翠」
いう事を聞いた犬には褒美をあげなくてはいけない。
俺は翡翠の頭をなでてやった。
「く、くぅーん」
恥ずかしそうに俯く翡翠。
その表情がまたたまらない。
「もっかいお手」
「わん」
従順そのものである。
「じゃあ、次の命令は出来るかな?」
「わん」
この流れなら……いける!
きっと聞いてくれるはずだ!
「ちんちん」
「……」
再び翡翠の顔が真っ赤に染まった。
「出来ないのかな?」
「……わ、わん」
なんともいえない表情。
ああもう翡翠たんモエエエエエエエエッー!
失礼、キャラが崩壊した。
「そこにベッドがあるだろう? あそこに仰向けで転がるんだ」
「……」
「ちんちんは服従のポーズだからね。別にやましいことは何もないさ。犬は主人に服従するものなんだろう?」
「……わ、わん」
さあ盛り上がってきましたよ!
「出来ないのかな?」
「……きゅーん」
きゅーんとか言う翡翠激萌え!
このまま一気に押し倒したいぜ!
「……ああいや」
いい加減キャラ崩壊はやめよう。
「嫌だったらいいんだよ、うん、ごめん変な事言って」
俺は紳士なのだ。
ジェントルマンなのだ。意味は同じだけど。
「……」
ふるふる。
首を左右に振る翡翠。
言葉はなかった。
だが目でわかる。
志貴さまが望むなら……と。
ああなんていい子なんだろう翡翠は。
まさにメイドの鏡だ!
琥珀さんにツメの垢でも飲ませてやりたい!
「……」
翡翠はおずおずとベッドに近づくと、ころんと横たわった。
両手をグーにして顔の横辺りで曲げている。
足はスカートがめくれない程度に折り曲げられていて、つま先が宙でふらふらしていた。
「きゅーん……」
そしてトドメの鳴き声、潤んだ目線。
「翡翠……」
そりゃもうご主人さまとしてはやる事はひとつである。
犬、つまりわんこな翡翠を食べてしまえと。
わんこだけにいくらでも。
上手い事言った!
「いっただきまーす!」
俺は颯爽と服を脱ぎ捨て、ルパンの如く翡翠へとダイブ!
「五月蝿いですよ兄さん! さっきからなんなんですか!」
「そうですよ、秋葉さまの部屋まで……!」
あ。
「……」
「い、いや、コレハデスネ?」
はい、お約束。
こんなに悲しいお約束、誰が最初にやったんだろう。
「なるほど、兄さんはそういうプレイがお好みですか……」
「これから楽しくなりそうですねぇ〜。うふふふふ」
どうやら遠野家に雄犬のペットが誕生するのは、そう遠い日ではないようであった。
完