温泉へ行きませんか、なんて琥珀さんが言い出したのは学校から帰ってすぐのことだった。
「温泉? なんでまた急に」
「理由は特にありませんよー。ただ、日頃の疲れを癒すのもいいんじゃないかなあと思いまして」
「日頃の疲れか……」
「肩とかこっていませんか?」
「うーん、さすがにそれはないけど」
なかなか疲労というのは溜まっているものなのだ。
特に俺の場合、そんなに体が弱い部類に入る。
その上色々なごたごたのストレスもあって、正直言ってかなり。
「……疲れてるかもな」
「あはっ。では決まりですね。早速行きましょう」
「早速? まさか今から行くっていうの?」
俺が尋ねると、琥珀さんは満面の笑みを浮かべて言うのであった。
「はい。なんせ歩いてすぐのところですから」
「間近に温泉があったなら」
「近所に温泉があるなんて知らなかったよ」
「数年前に作られたものなんです。ですから歴史あるものではないんですよ」
木の風呂桶、その中にタオル諸々、お約束のお風呂セットを抱えている琥珀さん。
服装のこともあって、その姿は妙にマッチしている。
「ですけど、お風呂は大きいですし、設備も充実してます。温泉の効能も素晴らしいです」
「へえ、そうなんだ」
「はい。神経痛、筋肉痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、打ち身、くじき、病後回復、健康増進、お肌の美容など、他にも色々効果があります」
「く、詳しいんだね」
まるで温泉宿の女将さんのように詳しかった。
「それはまあ、遠野の温泉ですからねー」
「……はい?」
「ですからうちが経営している温泉です。正確には遠野グループがお金を貸して運営して頂いている温泉施設なんですけれど」
「マジ?」
「はい。そんなことで嘘をついてもしょうがないじゃないですか」
「それもそうか……」
遠野家に住んではいるものの、正直俺はそのグループが何をしているのかとか実際問題どれくらいの金持ちなのかとかそういうことはさっぱりわからなかった。
「ちなみに屋敷内にも封印された露天風呂があったんです」
「そ、そんなもんまで?」
遠野の館は色々わからない事ばかりである。
「でもわたし、洋風のお風呂ってどうも苦手でして。お屋敷にあるのは露天なのに洋風作りなんですよ。嫌だと思いません?」
「あ、それちょっとわかるな」
遠野家のお風呂は全て完全な洋風のものである。
未だに俺はそれに慣れていなかったりするのだ。
「それにそんな大きな露天風呂に一人きりだなんて、寂しいじゃないですか」
「だなぁ」
銭湯ならそれでもいいだろうけど、個人のお風呂としてはあまり向いてないんだろう。
「そんな訳で露天風呂は封印中なんです。それで裸の付き合いといいますかなんといいますか、それを優先してこちらを愛用しているわけなんですよ」
「そうなんだ……」
「はい」
琥珀さんはころころと笑っていた。
「その温泉には結構行ってたりするの?」
「ええ。一応VIP待遇もして頂けますしね。時々入りに行っています」
「そうなんだ。翡翠とかも一緒に来たりしないの?」
「いえ、それはないですねー。翡翠ちゃんは人ごみとか苦手ですし、秋葉さまは言わずもがなです」
「なるほど」
秋葉はきっとお嬢様じみた理由でノーなんだろうなぁ。
「何故そんな庶民の集うところに行かねばならないのですっ!」
みたいな感じで。
「……でもさ」
俺はそこで一旦足を止めた。
「はい? なんでしょうか?」
琥珀さんも同様に足を止める。
「気付いてるんだろ?」
「いえ、何の事だか。わたしにはさっぱりですよー」
わざとらしくとぼけた態度を取る琥珀さん。
まあそれは琥珀さんらしいと言えばらしいんだけど。
「尾行されてることだよ」
俺はそう言って、後ろを振り向いた。
慌てた様子で電信柱の裏へと隠れていく二つの影。
「あらら、いつの間に」
「家を出てすぐじゃないかな。あんまり離れた距離じゃないし」
俺たちをさっきから尾行しているのは、おそらくというかまあ間違いなく翡翠と秋葉であった。
何故ってメイドとお嬢様の二人組なんかがそういるわけなんてないからだ。
電信柱までの距離は約2〜3メートル、会話も聞こえる範囲内である。
「翡翠ちゃんが秋葉さまに話すとは思えませんし、うーん」
翡翠は俺と琥珀さんで温泉へ出かける事を話したから俺たちが温泉へと向かうことは知っている。
その時に琥珀さんが「秋葉さまにはナイショね」と告げておいたのだ。
だが秋葉はその事実を知らないはずなのである。
何故二人は俺たちを尾行してきているんだろう。
「秋葉さまが例えば宿題の問題がわからないとか理由をつけて、志貴さんの部屋へ行ったのかもしれませんね」
「はは。秋葉に解けない問題なんか俺にも無理だよ」
「真の理由は別なんですが……まあ志貴さんにはわかりませんよね」
「は?」
「内緒です」
くすくすと笑う琥珀さん。
なんだかよくわからないけど秋葉は秋葉なりの理由があるようである。
「でも、別に秋葉に内緒にする必要も無かったんじゃないかな」
「それは駄目ですよー。二人で一緒にどこかに行くだなんてばれたらお咎めを受けてしまいます。まあもうばれちゃってるわけですけど」
「まったく秋葉も厳しいよな」
しかもその矛先がほとんど俺に向けてのものだから困ってしまう。
「あはっ。それはまあしょうがないことですって」
琥珀さんは意味深な笑みを浮かべていた。
「……で、どうするんだ? あの二人」
「放っておきましょう。温泉は二人とも苦手でしょうから引き返すかもしれませんし」
と、そこで琥珀さんは桶からアヒルのおもちゃを取り出した。
「それでもついてきたら、それはそれで面白いですから」
がぁ〜とアヒルのおもちゃがマヌケな声を上げる。
きゃ、と小さい悲鳴。
続いてお黙りなさい、んぐっとかいう謎の声。
「……」
あの二人、あれでもちゃんと尾行しているつもりなんだろうか。
「あはっ。志貴さん。何か声が聞こえませんでしたか?」
一方わざとらしく大声を上げる琥珀さん。
「え、い、いやぁ、その……」
この場合なんと言うべきなんだろう。
「ネコですかね? 最近この辺りに多いらしいですけど」
すると、いかにも演技くさく「うにゃ〜」なんて声が聞こえた。
「あらあら。ネコだったみたいですね?」
琥珀さんはそんな事を言ってくすくす笑っている。
「は、はは……」
割烹着を来ていようが来てなかろうがこの人は間違いなく悪魔なのであった。
続く