琥珀さんはやたらと嬉しそうな表情をしていた。
「な、なに?」
これはまたひょっとして琥珀さんに一杯食わされたのではないだろうか。
「ですから、わたしに塩を塗ってくださいな〜」
そう言って琥珀さんは身に纏ったタオルに手をかけるのであった。
「間近に温泉があったなら」
その10
「ちょちょちょちょっと……」
窮地を乗り越えたと思ったらまたこんな展開なのか。
「ね、姉さんっ!」
琥珀さんに向かって珍しく強い声をあげる翡翠。
「あはっ。冗談だよ冗談。翡翠ちゃん、後ろ塗ってくれるかな?」
琥珀さんは背中を翡翠へ向けた。
本当に冗談だったのかどうかは琥珀さんのみぞ知るといった感じである。
「もう……」
翡翠は溜息をつきながらもきちんと塩を塗りはじめた。
首から肩へ、肩から腕へ。
うなじがなかなか色っぽかったりする。
「姉さん、肩が凝ってますね」
「あ、やっぱりわかるかなー? 塩を塗りつつ揉みほぐしてくれると助かるんだけど」
「わかりました」
いかにも姉妹のコミュニケーションって感じで微笑ましかった。
「ん……そこそこそこ。もっと強くね」
「はい」
なんだか二人の邪魔をするのは悪い気がする。
俺は一人で適当に塩を塗りたくっていることにした。
塩樽の傍の丸い椅子に座り、右手で塩を掴んで左肩から指先にかけて塗りたくる。
塩は適当に湿っていてすんなり肌にくっついてくれた。
「えーと」
そのまま余った塩を胸や腹に。
それから左手で右肩のほうに塩を塗っていく。
「……」
それからついでに傍に書いてあった注意書きを読んでみた。
塩はみんなが使うものです。適量を正しく使いましょう。
「……適量ってどのくらいなんだろう」
そのへんがよくわからないのでまあ手のひらくらいの塩をちょっとずつ取っていくことにした。
次は背中だ。
「んしょ……っと」
しかし背中は見えないだけあってなかなか塗り辛い。
「そうだ。翡翠ちゃん。志貴さんの肩も揉んであげれば?」
「うえ?」
顔を上げる。
両手は背中にある状態なのでなかなかマヌケかもしれなかった。
「あらら。志貴さん言ってくださればいつでも塗って差し上げましたのに」
俺を見てそんな事を言ってくる琥珀さん。
「い、いや、なんか悪いかなと思って」
とりあえず手を元に戻す。
「そんなところで遠慮しなくたっていいんですよ。ささ、背中を向けてください」
「え、あ、うん」
まあ塩を塗られるくらいはいいか。
俺は背中を琥珀さんのほうへ向けた。
「はーい、では思いっきり塗りたくりますよー」
ぺたんぺたんと琥珀さんの指が背中にあたる。
「あはっ。やはり男の人の背中は大きくていいですねー。やりがいがありますよ」
「いや、でも俺はそんな広くないほうだと思うけどな」
有彦なんかは結構鍛えてるので後背筋とかが凄いんだけど。
「それでも女性に比べたら全然違います。さっき見てなかったんですか?」
「いや、もうそれどころじゃなかったって」
「イチゴさんの胸に釘づけでしたもんねー、志貴さん」
「あ、あはは……」
図星過ぎて言い返す言葉もなかった。
「でもイチゴさんの登場はわたしにも予想外でした。おかげでわたしの体に夢中にさせちゃうぞ作戦が半分くらいもってかれちゃいましたよ」
「そうだったんだ……」
まあ最初からイチゴさんが最初から協力するつもりだったんならお酒なんて飲んできてなかっただろうしな。
「でもほとんど琥珀さんのペースだったけど」
「アクシデントにいかに対処出来るかが勝負どころですよ。いっぺんペースに巻き込んでしまえば志貴さんなんてちょちょいのちょいですし」
「ははは……」
それも図星だ。
正直琥珀さんには敵う気がしない。
「それで志貴さん、下のほうも塗り塗りしましょうか?」
「い、いいいいいって」
「ね、姉さんっ。破廉恥ですっ!」
「あはっ。だから冗談だってばー」
「……はぁ」
まったく油断も隙もあったもんじゃないのである。
「で、翡翠ちゃん。結局志貴さんのマッサージはやるのかなー?」
「あ、ええと、その……」
「やらないならわたしが胸でマッサージをしちゃおうかなぁ」
「や、やります。姉さんは大人しくしていて下さい」
琥珀さんは笑いながら後ろへ下がり、翡翠が代わりに来たようだった。
残念なような嬉しいような複雑な心境である。
「すいません、志貴さま。姉さんの思うが侭になってしまって」
「いや、いいって。翡翠のマッサージはちょっと興味あるし」
「……わ、わかりました。では誠心誠意頑張らせていただきます」
なんだかやや気合が入りすぎといったを感じの翡翠の口調。
「そ、そんなに緊張しなくていいから、お手柔らかに」
「は、はい。では……」
翡翠の手が肩に触れた。
そしてゆっくりとその指が動かされる。
「お……おおお?」
肩に快感が走った。
じわじわと疲労が拡散していくような感じ。
「ひ、翡翠」
「す、すいません志貴さま。強かったですか?」
俺が名前を呼ぶと翡翠は手を止めてしまった。
「いや。逆。いい。滅茶苦茶いいわ」
今までも誰かに肩を揉まれたことはあったけれど、翡翠のそれはどれよりもよかった。
「それはもう翡翠ちゃんですからー。マッサージのつぼはわたしが全て事細かく教えてあります」
「琥珀さんが?」
「はい。ツボは色々役に立ちますからねー。色々と」
「は、ははは……」
もうそのへんに関してはいちいち突っ込まないことにする。
「しかしわたしも待っている間暇ですね。翡翠ちゃんをマッサージでもしましょうか」
「い、いいですよ、姉さん」
翡翠はどぎまぎしていた。
「遠慮しないでって。ほらほらー」
「きゃあっ」
悲鳴をあげる翡翠。
「な、なんだぁ?」
思わず後ろを振り返ってしまう。
「……」
そしてそのまま俺は動けなくなってしまった。
何故なら、琥珀さんが翡翠の胸を鷲づかみにしていたからである。
続く