俺は有彦の頭のほうがおかしくなってしまったんじゃないかという疑惑を抱いてしまった。
「ダッシュダーッシュ! ダンダンダダーン!」
湯飛沫をあげながら階段を駆け昇って行く有彦。
「……早く風呂に入りたい」
俺の感情はもうただそれだけであった。
「間近に温泉があったなら」
その5
「ほら遠野。あそこが頂上だぞ」
「ああ……」
半サウナ状態の階段を昇ることで俺の体は汗でだくだくだった。
メガネからもぽたぽたと雫が零れ落ちる。
「ここまで来ただけで健康に良さそうな感じがするだろ」
「……まぁな」
確かに適度な運動、発汗は健康にいいことだ。
そういう意味ではこの階段はよかったのかもしれない。
「どうでもいいからお湯に浸かりたいよ、俺は」
「すぐ入れるって。ほれほれ」
ようやっと有彦に追いつくと、そこにはまた扉である。
「開けてみな」
「おう」
再び鍵で扉を開く。
ひゅおおおおお……
冷たい風がわき腹をくすぐった。
「うおおおっ」
思わず身震いしてしまう。
「おお……」
だが一瞬で目の前の景色に意識を奪われた。
そこには石造りの露天風呂が広がっていたのである。
惜しげもなくその淵から溢れ出していく茶色いお湯。
まごうことなき温泉だ。
周囲は木々に囲まれ、屋根もなくただ真っ青な空が一面に。
「スゲエだろ」
「ああ」
確かにこの景色を見ただけでもう階段を昇った甲斐があったと言えるかもしれない。
「今日は開放日じゃねえから人もほとんどいないし。貸し切り状態だな」
びしっと親指を立てる有彦。
「さっそく入ろうぜ」
俺はさっそくその岩肌に手を当てた。
ややヌルっとした感じのお湯が手を伝う。
「こら遠野。そりゃマナー違反だ。体を洗ってからだろ?」
「おっと失敬」
どうも慌てすぎてしまったようだ。
「さっさと洗ってさっさと入ろうぜ。あそこに洗い場がある」
「おう」
隅のほうに木の小屋のようなものがあって、その中で体を洗えるようだった。
頭、体とあっという間に洗い終える。
「おっしゃ! いざ!」
「温泉へ!」
口調は熱血だがちゃんとゆっくり歩いて近くまで歩いていく。
なんせ地面は温泉があふれ出ていて油断するとすっ転びそうな状態だからだ。
「せーの。とうっ!」
足を入れ、腰から一気に肩まで浸かる。
「くっはぁ……」
全身を程よい暖かさのお湯が包み込んでくれた。
湯の成分が隅々まで肌に浸透していく感じである。
「湯の温度は40度。ベストな温度だな」
「なんかもう、そういう理屈抜きでいい」
体中を弛緩させ、溜息をつく。
「いいなぁ……これ」
まさに日本の心、癒しの極み。
「だからついた名前が桃源郷だ。この露天の名前な」
「そうだったのか……」
俺はどうも誤解していたようだ。
「俺はおまえがあんまりにも楽しみにしているからてっきり混浴か何かなんだと思ったよ」
ところがそう言うと有彦はにやりと笑った。
「当たり前だろ? 混浴以外に何がある」
「……え?」
「見ろよ、あの角」
有彦が指差した先にはコの字型のカーブがある。
「あれの反対側が女湯からの入り口なんだ。入るとこにも『ここから先は混浴です』って書いてあった。気付かなかったのか?」
「そそそ、そうなのかっ?」
「おう。たりめーだろ」
俺の顔にお湯を被せる有彦。
「あちちちちっ……てめえ」
「なんだ。まさか行かないとか言わないよな? おまえも男だろう?」
「……」
じっと角を凝視する。
あの角の向こうには女性たちが。
いや、もしかしたら琥珀さんが。
「……行く」
所詮俺もただの男であった。
「それでこそだ」
有彦は立ちあがるとざぶざぶ波を立てて角のほうへと歩いていく。
「……」
しかし大抵の場合、こういう状況で何かを期待するのは大きな間違いなのだ。
何故なら。
「お〜お〜。これは若いお兄さん方がいらっしゃいましたのぅ」
「ささ、こちらへ来なさいな、なぁ?」
「いい、いや、その俺は……」
案の定、有彦はおばあさん方に囲まれて戸惑っていた。
要するに混浴だとわかっていて入りに来る女の子なんてそういるわけないのである。
しかも今日はVIPの人しかいないんだったら尚更だ。
「……おかしい。こんなはずじゃ……」
「おまえが夢見すぎなんだよ」
俺は溜息をついた。
「いや。あり得ない。絶対どこかに美女がいるはずだ。間違いない!」
「いないってそんなの……」
と言いながらもしっかり周囲を見まわしてしまう自分が悲しい。
「ん」
また似たような岩陰を見つけた。
そこからうっすらと見えるのは、まさに女性のボディライン。
しかも出るところは出てくびれているところはくびれている理想のラインであった。
「おっ……」
有彦も即座にそれを見つけたようである。
「見ろ! 神は俺を見捨ててなかった!」
「……うーむ」
髪の毛がかなり長いので琥珀さんではないようだ。
「そっこのおじょうさーん!」
有彦は大声をあげながらその女性へと近づいていく。
「あ、こら……」
慌てて俺も後を追う。
その途中で女性が振りかえった。
「げ」
「う」
二人して足が止まる。
「……なんだ、おまえら」
髪を下ろしているものの、その顔を見間違えるはずがない。
「……」
頭では理解していても声が出ない。
何故ってその女性はよく知っている女性の上に、なにひとつ肌にまとっていないのである。
「……ま、前くらい隠してくださいよっ」
かろうじてそう言うことが出来た。
「何言ってるんだ有間。風呂ん中にタオルなんて巻いて入るのは邪道だろ?」
不敵に笑うその女性は。
「あ、姉貴……」
有彦の姉、乾一子さんその人である。
「ハズレで残念だったね。他の女でも期待したかい?」
イチゴさんはどこも隠さずに堂々とした態度を取っている。
俺のほうが恥ずかしくなってしまうくらいであった。
「いいい、いや、それはなんつーか……」
イチゴさんの言葉にあからさまに動揺している有彦。
「……むぅ」
はて俺のほうもどうしたらよいのやら、目線に困るばかりであった。
「ちなみにあそこに美女が一人いるけどね」
「なにぃっ!」
「オマエは見せん」
有彦はイチゴさんにエルボーを食らって沈んでしまった。
「……」
悪いなと思いつつ俺だけがイチゴさんの指差した先を覗く。
「あ」
目線が合った。
「お待ちしてましたよー」
その女性は、いかにも『やりました』って表情をしている。
「……来ると思ってたんだ」
俺はそう尋ねてみた。
「はい、当然です」
琥珀さんはにこやかに返事を返してくれるのであった。
続く