「し、失礼しますっ!」
「あ、ちょっと翡翠っ!」

俺は逃げ出す翡翠を反射的に追った。

そう、追うために立ちあがったのだ。

「……はっ!」

思わず翡翠と同じような声を上げてしまう。

「ほほう」
「わ〜」
 

立ちあがった俺を二人のお姉さんがさも珍しそうに見つめているのであった。
 
 



「間近に温泉があったなら」
その8















「……」

こういう状況になった場合、人は不思議と動けなくなってしまうものである。

もう頭が真っ白になってしまってどうしたらよいのやらっていった感じになってしまうのだ。

「有間、ラクにしてやろうか?」
「……はうあっ!」

だがイチゴさんの一言で正気に返った。

返ったというよりはその一言がショックすぎた。

「イチゴさん、何をなさるんです?」

琥珀さんはもう完全にイチゴさんと協力関係である。

「何ってわかるよなあ、有間」
「……」

俺は生唾を飲んだ。

楽にしてやろうか、とはつまりそういうことなのではないだろうか。

いや、だけどいくらなんでもこんな場所でそれはあり得ないだろう。

すぐ近くにはおばあちゃんたちや有彦だっているんだから。

そういえば有彦はどこへ流されてしまったんだろう。

「おばあちゃん方はもう上がってしまわれたから丁度いいですねー」
「え」

なんとおばあちゃん方はどこかへ行ってしまっていたらしい。

「有彦も逃げたみたいだしなあ」

イチゴさんの登場でヤツは俺を見捨てたようだ。

そのせいで俺はこんなにピンチだというのに。

「つまり邪魔するものは誰もいないということですよ? 志貴さん」
「う……」

その言葉はやたらと魅力的だ。

だけどこんなのはいけない。

その場の感情に押し流されてはいけないのだ。
 

「面倒だからやっちまうか」
 

俺が悩んでいるうちにイチゴさんのほうが近づいてきた。
 

「……う」

吐息までもが感じられる距離。

ああもう逃げられない。
 

ごきゃっ。
 

「ぉぐっ……おおおお……」
 

イチゴさんの右ストレート。

下半身の限定部分、直。

「どうだ?」
「死ぬ……死んでしまう……」

俺は岩肌にぶっ倒れてうめき声を上げた。

この痛みは男にしかわからないだろう。

っていうか普通そんなところは絶対殴ったりしない。

「う、うわぁっ。志貴さん大丈夫ですかっ?」

琥珀さんはどうも別の展開を予想していたようでやたらとあせっていた。

「……いや……うん、か、覚悟はしてたから」

最初から変だとずっと思っていた。

いくらイチゴさんだといえども大胆過ぎる、と。

そうして様子を伺ってみてひとつ気付いた事があるのだ。

それはイチゴさんの息がちょっとだけお酒くさかったことである。

「……イチゴさん、多分滅茶苦茶に酔ってる」
「え、ええっ? そ、そうなんですかっ?」
「うん。酔っても全然普段と顔色も口調も変わらないから気付かなかったと思うけど」

しかも有彦と違ってイチゴさんはベラボウに酒に弱かったりするのだこれが。

全く持って不思議なことなのだが俺は昔からの付き合いでそれをよく知っていた。

そして酒好きなのにも関わらず弱いのだ。

無茶苦茶タチが悪いのである。

「だから俺なんかよりイチゴさんを介抱して欲しかったりする」
「ど、どうすればいいんでしょう?」
「……上がらせて、コーヒー牛乳でも飲ませれば」
「わ、わかりました。すぐに手配します。あのー。一子さん。ちょっと場所を移動しませんかー?」
「あん? そうだな。有間で遊んでばかりなのも悪いし」

本当に普段のイチゴさんとお酒をのんだイチゴさんの差は微妙なものだ。

だが強いて言うなら「有間」の発音がやや普段と異なっていたりするような感じ。

「じゃ、有間、またな」
「すいません志貴さん。また後で〜」

琥珀さんとイチゴさんは去っていった。
 

「……」

嵐去り往くといった感じである。

しかし俺は激痛のためほとんど動けたもんじゃなかった。

とりあえずふらふらと動いて湯へと浸かる。

「いよい。大変だったなあ遠野」

その途端に真後ろから有彦の声が聞こえた。

「有彦、おまえ今までどこにいた?」
「あん? 裏で状況を眺めてた」

有彦は岩肌を乗り越え、ひょいと俺の隣に滑り込んできた。

「一目で姉貴が酔ってるってわかったからな。スケープゴート渡して逃げるが懸命だってね」

バカ笑いをする有彦。

「あのなあ。ほんとに死ぬところだったんだぞ?」
「いいだろ別に。そのぶんいい目だって見たんだからさ。ったく、あんな美人のおねーさんに胸押し付けられるなんてわかってたら、姉貴の災難を受けてでも一緒にいるんだったぜ」
「アホ」

世の中というのは大抵その当事者でいるよりも見物人でいるほうが楽なのである。

例え端から見ていてああ羨ましいなあと思える事であっても。

「まあコーヒー牛乳奢ってやるからそれでいいだろ? なぁ? 卓球のタダ券もやるぞ?」
「む」

風呂上りのコーヒー牛乳と卓球は温泉に必須のものである。

「そ、それならまあ……許してやってもいいかな」
「へっへっへ。サンキュー」

どうも俺もまだまだ甘いようである。

「それよかさっき逃げてったお嬢ちゃんはどこに行ったのかな?」
「俺が知るわけないだろ。途中からそれどころじゃなかった」

そして翡翠があの場にいたら間違いなく卒倒していただろう。

「……卒倒?」

ふと俺は嫌な予感がした。

「なあ有彦。ここのお湯はやたらヌルヌルしてるよな?」
「あん? なんだいきなり」
「答えろ。どうだ?」
「ああ。スゲエヌルヌルしてるな。だから入るときはゆっくり入っただろ? あぶねえからな」
「……」

そんな場所を翡翠は駆けていったのである。

「有彦。おまえはもうちょいここで湯に浸かってろ」
「ん? 遠野はどうするんだ?」
「ちょっと散歩だ。空気に当たりたい」

ざばりとお湯船から上がる。

イチゴさんショックでタオルのテングの顔も平に戻っていた。

「……」

てくてくと琥珀さんたちが歩いていった方向と逆へ歩いていく。

翡翠が駆けていったのはそっちのほうなのだ。

もしかしたら翡翠は。

「……いた」

すぐに翡翠は見つかった。

俺の予想通りだったんだろう。

岩肌に力なく翡翠は倒れていた。

「だ、大丈夫かな」

さすがにこの場合恥ずかしい云々を言っている場合ではない。

即座に翡翠の横へと座る。

「……」

翡翠はぴくりとも動かない。

「まずいな……」

もしかしたら後頭部を強く打ってしまったのかもしれない。

「……」

もうこの露天風呂は人が引き気味なのか、こちらのほうにも人はいなかった。

どうしたらいいのか。

気を失っている人を助けるための手段といえばあれだ。

心臓マッサージ、それと人工呼吸。
 

「……マジかよ」
 

俺は途方に暮れるのであった。
 
 

続く



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