「まずいな……」
もしかしたら後頭部を強く打ってしまったのかもしれない。
「……」
もうこの露天風呂は人が引き気味なのか、こちらのほうにも人はいなかった。
どうしたらいいのか。
気を失っている人を助けるための手段といえばあれだ。
心臓マッサージ、それと人工呼吸。
「……マジかよ」
俺は途方に暮れるのであった。
「間近に温泉があったなら」
その9
「い、いや待て、乙着け俺」
おつつけとか言ってる時点でおかしいのはわかってるけど落ち着くんだ俺。
心臓マッサージや人工呼吸は心臓が動いていたり呼吸をしている人にしてはいけないのだ。
まずそれを確認しなくてはならない。
「……心臓の音」
俺はそっと翡翠の胸に耳を近づける。
断っておくがこれは不可抗力のことなのである。
断じて俺の顔はにやけてなんかいない、きっと、多分。
「……」
心臓はしっかりと鼓動しているようだった。
「よかった」
ここは素直に安堵の息を漏らす。
「ひ、翡翠、翡翠」
それからぽんぽんと肩を叩くがやはり反応はない。
呼吸もかなり弱っている感じだ。
「……仕方がない」
こうなったらやるしかないではないか。
「まず顎を上に向けて……」
翡翠のおでこに手を当てて、反対の手で顎を上へ上げる。
「……」
薄桃色の翡翠の唇。
「よし」
俺は大きく深呼吸をした。
そうしてそっと顔を近づけて。
「志貴さん、何をされてるのですか?」
「だわあっ!」
いきなりの声に思いっきり後ずさりをしてしまった。
「……こ、琥珀さん」
「いけませんよ志貴さん。いくら翡翠ちゃんが可愛いからって気を失っている間にはじめてを奪ってしまうだなんて」
「は、はじめてってそんな」
琥珀さんの言い方はあからさまに誤解を招きそうな言いかたである。
「そんなに心配することはありませんよ。翡翠ちゃんは別に健康体ですから」
「え?」
「だよねー? 翡翠ちゃん」
「……」
すると翡翠は無言のまま起き上がって来た。
「ききき、気付いてたの?」
「い、いえ、志貴さまが顔を近づけてきたあたりからだったのですが、その、どうしてよいのかわからなくなってしまって……」
顔を真っ赤にしている翡翠。
「またまたー。ほんとは最初から気付いてたのにあえて気絶しているふりをしていたんじゃないの?」
「そ、そんなことありませんっ!」
「っていうか琥珀さんはどの辺りから見てたわけ?」
「え? それはもう、志貴さんが翡翠ちゃんを見つけてうろたえているところからです」
「……」
ほとんど全部であった。
「い、イチゴさんはどうなったの?」
いくならんでも行動が素早すぎる。
「一子さんはすぐ従業員さんにお任せしたんです。わたしよりも対応が慣れているでしょうし。それで戻ってきたら翡翠ちゃんが倒れていたわけです」
「え? じゃあ俺より先に翡翠を見つけたってこと?」
「はい。翡翠ちゃんを介抱してさあ志貴さんのところへ行こうとしたら志貴さんが来たわけですね」
なるほど、琥珀さんに介抱された後だったら俺が何をどうしようとしなくても翡翠は安全だったわけである。
「まあとりあえず翡翠が無事でよかった」
「志貴さま……」
「わー。いいなぁ。妬けちゃいますねー」
琥珀さんはどこまでも楽しそうであった。
「わ、わたしはもうあがりますね」
そんな琥珀さんに遠慮してか翡翠はそんなことを言った。
「そんな。せっかくなんだから志貴さんを交えてゆっくりお湯に浸かろうよ」
「そ、そそ、そんなことわた、わたし」
ああ、これが普通の女の子の反応なんだろうなあ。
やや過剰反応過ぎるかもしれないけど。
「いいよ。俺は有彦と入ってるから、そんな無理しなくて」
「そんなー。男同士の裸の付き合いなんていつでも出来るんだから今を満喫しましょうよ」
「……うーん」
しかしまたさっきみたいな状況になったら困るしなあ。
「じゃあ、あれです。お湯に入るのが問題ならサウナにしましょうよ」
「サウナ?」
「はい。しかも塩サウナです。美容にいいんですよー」
「そうなんですか」
翡翠も美容という言葉にはそそられたのか、やや興味ありそうな顔をしている。
「サウナでたっぷり汗をかいて水をあびる。それがたまらないんですね」
確かにサウナで我慢した後の開放感というのはたまらないものだ。
そして俺はその塩サウナとかいうのにはまだ入った事がなかった。
「ちょっと興味あるな」
「ですよね? では早速行きましょう。ほらほら翡翠ちゃん」
「あ、いえ、わたしは」
「いいからいいから」
翡翠は琥珀さんに半ば強引に手を引かれ、連れて行かれてしまった。
「うーん」
俺も苦笑しながら後を追いかける。
「ここですよー」
「ここですか」
案内された先はビニールハウスみたいな感じの建物であった。
もちろん材質は別のものなんだろうけど。
中は蒸気のせいか、ほとんど何も見えない。
建物の屋根のあたりには温度計がつけられている。
六十七度。
サウナの温度なんだろう。
「ささ、志貴さんどうぞ」
「あ、うん」
そこだけは木で作られている扉をゆっくりと開ける。
途端にむわっとした空気が俺の体を包んだ。
「うおっ」
だがその空気はとても湿っぽい。
「スチームサウナみたいな感じなんだな……」
スチームサウナとはそのなのとおり蒸気と湿気に満ちたサウナのことである。
普通のサウナと違って水分が多いので、結構長い時間入っている事が可能だったりするのだ。
「どうです? なかなかのもんでしょう」
「うん。結構いいかも」
実は普通のサウナよりこういう湿気のあるサウナのほうが俺は好きだったりする。
普通のサウナの蒸し蒸しした感じがなんとなく満員電車とかを連想してしまって駄目なのだ。
「姉さん。これではただのスチームサウナではないでしょうか」
翡翠の言う通り、これだけではただのスチームサウナである。
「ちっちっち。そこが素人さんの浅はかさです。見てください、中央をっ」
「中央?」
中央を見るとなんだか漬物樽みたいなものが置かれていた。
「なんだ……?」
近づいて中を覗いてみると中身は白い粉。
まあ、塩である。
「塩だね」
「はい。塩です」
なるほど、塩が置かれているから塩サウナか。
「それで、この塩をどうすればいいのかな」
「決まってるじゃないですか。お肌に塗るんですよ」
「肌に?」
「ええ。塩を肌に塗る事で発汗を促し、さらに美容効果まであるんです。ダイエットには最適ですね」
「そういうもんなのか……」
俺はてっきり砂風呂みたいなものなのかなと考えてしてしまっていた。
まあ普通に考えたらそんなお金のかかりそうなことやるわけないか。
「と、いうわけですね。志貴さん」
琥珀さんはやたらと嬉しそうな表情をしていた。
「な、なに?」
これはまたひょっとして琥珀さんに一杯食わされたのではないだろうか。
「ですから、わたしに塩を塗ってくださいな〜」
そう言って琥珀さんは身に纏ったタオルに手をかけるのであった。
続く