夢のようなウォーターワールドも終わりを告げ、平々凡々な日常が始まろうとしていた。
まあ平和というのは退屈でありながらも素晴らしいものである。
「有彦さーん」
「ん」
いつも通りのななこの声。
「あと五分……」
寝返りを打つ俺。
「起きてくださいよー」
ゆさゆさ。
「一子さんが怖い顔してますよー?」
「おはようななこ、いい朝だな」
「まあ冗談なんですが」
「……てい」
必殺の有彦パンチがななこの脳天に突き刺さった。
『ななこ・すーぱーがーるカンパニー』
その120
「酷いですよー」
「やかましい、嘘なんかつくのが悪いんだ」
「なんだい、朝から騒々しい」
「お」
リビングには既に姉貴が座っていた。
「珍しいな」
普段は一番最後に出てくるのに。
「仕事の話だよ」
「……さいですか」
「急ぎの仕事なのですか?」
同じく既に来ていたシオンさんが尋ねる。
「まあそんなとこさね」
「今回は誰が担当なんですかー?」
調理場から弓塚の声。
そして卵の匂いとジュージュー焼ける音が聞こえてきた。
「目玉焼きか……」
「半熟でお願いしますね」
シオンさんは半熟派だった。
「わたしはきちんと焼いてー」
「誰もお前のリクエストなんか聞いてない」
「うー」
「どうでもいいだろ卵の焼き加減なんて」
「人には色々なこだわりというものがあるのですよ」
「む」
なるほどそれは一理あるかもしれない。
シオンさんのような知的なタイプはとても素晴らしい。
が、弓塚のような自然体で頑張るタイプにも独特の良さがある。
ななこはまあ……悪いところしかないので略。
「よくわかった」
「……何やら湾曲された理解のされ方をした気がしますが、まあよいでしょう」
「はっはっは」
流石はシオンさん。読みが鋭い。
「出来たよー」
「お」
なんて事をやっている間に弓塚が目玉焼きを持ってやってきた。
「パンに乗せて食べてねー」
「おう」
さっそく頂くとしましょうか。
『いっただきまーす』
挨拶とともに皆が好き勝手に食事を始めた。
全員交代で食事当番をやっているおかげか、細かい味付けなんかがレベルアップしている。
サラダにしろスープにしろ。
シンプルなものほど実力が出るとは誰が言った言葉だったか。
「食べながらでいいんで聞いてくれ」
「ん」
どうやら仕事の話らしい。
「取り合えずそれぞれの給料を計算してみたんだがね」
「おう」
一応それぞれが給料の確認はしているが、総元締めは姉貴の役目である。
そもそもの仕事の斡旋が姉貴の仕事だからな。
「しばらくは働かなくても生活費くらいはなんとかなる程度になったんだよ」
「ほう」
そりゃまあ毎日働きづめだったからな。
「で、どうするかって話」
「どうって?」
「しばらくは働く必要がないという事ですか」
シオンさんがそんな事を言った。
「そう。遊んで暮らしててもいいって事」
「ほー」
そりゃまた魅力的な提案である。
だがしかし。
「どうせしばらくしたらまた働かなきゃいけないんだろ?」
「当然。生活費ってのは無くならないからね」
「……だよな」
しばらく遊んでいても結局また働かなきゃいけないという事である。
「だったらオレは仕事を続けるままでいいさ」
「ほう?」
「家でゴロゴロしてたら体がなまっちまうからな」
ななこが居候に来る前はバイトの日々だったし。
「わたしも有彦と同じ意見です」
これはシオンさん。
「働くという事はそれだけで社会に貢献していますからね。内容がどうであれ」
内容がどうであれというのをいやに強調している気がする。
「せっかく働けるようになったんだから頑張らないと」
弓塚の意見はまあ予想通りだった。
こいつは昔っからバカ真面目だからな。
「わたしはちょっとお休みしたいなぁ……とか」
「オイコラ」
我が家で一番家計を圧迫していた時期が長いヤツが何をほざく。
「おまえは今まで食ったニンジンの数を覚えているのか?」
「そんなの覚えてるわけないじゃないですか」
用途を間違えた。
「恩返しをしろと言っているんだ」
「それはもう体で十分支払ってるじゃないですか」
「ほう?」
姉貴の目がきらりと光る。
「いや、単に仕事するようになったって話」
本当はそのまんまの意味だったりしないこともない。
「休みたいというのには何か理由があるのではないですか?」
「ん」
「どうです、ななこ」
尋ねるシオンさん。
ななこは何ともいえない複雑な顔をしていた。
「いえですね、わたしもこっちのほうの仕事のほうが楽しいんで頑張りたいんですが」
「こっちの……って事は」
「はい。ちょっとマスター側の仕事が忙しくなりそうで」
「なるほど、例の件ですか」
「多分」
何やらやたらと意味深な会話である。
だがうっかりそこに「何の話なんだ?」なんて聞いてしまったら最後だ。
乾有彦の生活は一般市民とはまるで違う、マンガみたいな世界になってしまうに違いない。
だからオレは敢えて聞かない。
無言でひたすらパンを口に運ぶ。
「まあそういう事なら仕方ないな」
この姉貴の大雑把さは毎度の事ながら呆れてしまう。
「一応ななこSGKっつー名前なのにな」
ななこへの皮肉のつもりでそんな事を言ってみる。
「ドラえもんの主人公はのび太くんですから」
「微妙に分かり辛い反論をしないでくれ」
言いたいとは大体分かるが。
「かっぱ巻きにかっぱは入っていないといいたいのですね」
「それだ!」
ななこが働かないのにななこSGK。
「それにほら、マスコットキャラだと思えばいいんですよ」
「自分で言うな」
頭をぐりぐりしてやる。
「あーうー」
「byKDDI」
「うわ、すっごい懐かしい事言ってる」
「俺も思った」
このネタ果たしてどれだけの人間がわかるんだろうな。
「……じゃまあ、ななこちゃん以外はとりあえず継続でいいのか」
「そういう事になるな」
「もちろんそのつもりです」
「いつまでもお世話になるわけにはいきませんから」
最後の弓塚の言葉を聞いた姉貴は呆れたような顔をしていた。
「何言ってんだい。ずっと家にいたっていいんだ。なんなら嫁にでも来るかい?」
「え、ええっ?」
もちろんこれは冗談である。
姉貴の言葉なんぞ9割が嘘っぱちだと思っておいて問題ない。
「だってよ弓塚」
しかしそこで姉貴のほうに加担するのがオレというキャラクターである。
「困りました。それではわたしの嫁ぐ先がないではありませんか」
こういう時のシオンさんのノリの良さは非常に素晴らしい。
「え、ええ、え……」
口元を押さえ、顔を真っ赤にしている弓塚。
弓塚をからかうのは実に面白い。
「いじめはよくないですよっ! だいたいみんな嘘んこなんでしょう!」
ななこがオレを睨みつけながら叫んだ。
つーか何故そこでオレを睨む。
「まあ嘘だけど」
「あーりーひーこーさーん!」
「はっはっは。嫉妬してるのか、可愛いやつめ」
「してませんっ!」
こうやってななこをからかうのもすっかり慣れた。
慣れたといっても面白いのには変わりないが。
「平和ですね」
「だねぇ」
「今日も飯が美味いね」
他の連中はななこの相手をオレに任せて優雅な朝食タイムに浸っていた。
「聞いているんですか有彦さんっ?」
「いや全然聞いてなかった」
「もう! ですからー!」
「あーはいはい」
「聞いてくださーい!」
今日も今日とてななこはすこぶる絶好調のようであった。