「とす?」
身体が横に揺れて。
ぱたりと秋葉は倒れてしまった。
「あ、あれ……?」
秋葉が倒れ、人影が俺の目の前に現れる。
「志貴さま。お怪我はありませんでしたか?」
それはいつものように平然とした顔をしている翡翠であった。
「屋根裏部屋の姫君」
その39
「ひ、翡翠……なんでこんなところに?」
「見まわりの時間ですから。毎日この時間に見まわりをしています」
「そうなんだ……」
メイドってのも色々大変なんだなあ。
「秋葉、気を失っちゃったみたいだけど……」
「はい。当身を食らわせましたので」
当身っておい。
「……琥珀さんの変装じゃないよね?」
念のために尋ねてみる。
前にも琥珀さんが翡翠の格好をしていて騙されたことがあるからな。
「仰っている意味がよくわかりませんが……わたしとて護身術のひとつやふたつ習得しています」
そういうことらしい。
「……ちぇ。もうちょっとで妹を亡き者に出来ると思ったのに」
背後でアルクェイドが怖いことを呟いている。
「おまえなあ。そもそもどっから出てきたんだよ。部屋で寝てたんじゃないのか?」
振り返ると正真正銘真後ろにアルクェイドがいた。
攻撃を仕掛ける直前だったらしい。
翡翠が止めてくれた事に心から感謝した。
「ええ。そのつもりだったんだけど。志貴がトイレに行くって言ってから全然帰ってこないから探してたのよ」
「へ? じゃあおまえ今までずっと部屋の中にいなかったのか?」
「……たぶん10分くらいは待ってたけど。全然戻って来ないから」
すると俺がシエル先輩を離れに案内している間くらいは部屋にいたが、それから俺が部屋に戻る直前くらいにアルクェイドは部屋を出たことになる。
「ずいぶん迷ってたんだな」
「仕方ないでしょ。志貴が見つからないんだもん」
拗ねる仕草をするアルクェイド。
いくら廊下を歩いたって俺は琥珀さんの部屋にいたんだから見つかるはずがない。
「それで諦めかけたんだけど、一階に電気がついてるでしょ? 志貴かなと思って降りてきたら」
そこでアルクェィドは俺を睨みつけた。
「妹と志貴とが抱き合ってたわけ」
「だ、だから秋葉はおかしかったんだって。いつもと全然雰囲気も違ったし」
「おかしい?」
「うん。そうだよね、翡翠」
当身を食らわせたくらいなんだから、秋葉がおかしいと気付いていたんだろう。
「はい。見てすぐにわかりました」
「……ちなみにどのあたりから見てたの?」
「男と女が床に寝てすることと言ったらひとつではありませんか? のあたりからです」
「ぐあ」
よりにもよってとんでもないところを聞かれてしまったもんだ。
しかも翡翠がそんなセリフを言うものだから余計にどきどきしてしまう。
「そ、それは、その、なんていうか」
「マッサージでもするの?」
アルクェイドがボケをかましてくれる。
「……ま、まあ、そうだよ、うん」
説明するのもなんだか恥ずかしいのでそういうことにしてしまった。
「ふーん。でも、どうして妹は変だったのかな」
「俺が知るわけないだろ」
そんなわけで事情を知ってそうな翡翠に視線を向ける。
「詳しい話は後でいたします。先ずは秋葉さまを部屋へお連れしますので」
「あ、うん」
翡翠はくてんとしている秋葉を肩に担いだ。
いかにも無理がある。
「ああ、いいよ。俺が運ぶって」
「しかし……」
「いいっていいって」
「わたしが運ぶわよ」
言うなりアルクェイドがひょいと秋葉を担ぎ上げてしまった。
「いいのか?」
アルクェイドがそんなことを言い出すなんてちょっと意外だった。
「志貴に妹が抱き上げられるなんて癪だもの」
「……はは」
理由はどうあれ、とりあえずありがたかった。
「では秋葉さまの部屋へと案内いたします」
俺たちは秋葉を部屋に連れていって寝かせ、そうして三人で俺の部屋へと戻ってきた。
「はー」
ベッドに腰掛ける。
今は一体何時なんだろう。
何時だか分からないけど明日は多分寝不足だろうなあ。
でも秋葉のことを聞かなきゃ眠れそうも無い。
「それで翡翠。秋葉がおかしかった原因ってわかるかな?」
「はい。おそらく姉さんの薬のせいだと思います」
「薬?」
そういえば琥珀さんも秋葉が起きてこないことに妙な自信を持ってたからなあ。
「つまり琥珀さんに薬を飲まされておかしくなったってこと?」
「いえ。自分から薬を頼んだんだと思います」
「自分から?」
なんでまたそんなことを。
「はい。志貴さまは既に理解なさっているでしょうが、秋葉さまは感情の処理というものがあまり上手ではないのです」
それは翡翠も言えなくもないけれど、確かに秋葉は翡翠と違った意味で感情の処理が下手だ。
なんというか、妙にお嬢さまぶるというかわざわざ偉そうな態度を取るというか、そんな感じだ。
「それと薬と何の関係があるの?」
アルクェィドが尋ねる。
「はい。ですからあまり表には出さないのですが、秋葉さまはかなりのストレスを抱えていらっしゃいます」
「……そうかもなあ」
さっきの秋葉はかなりの愚痴を言っていた。
あれを普段は我慢しているんだから、よっぽどのストレスだろう。
「それでも秋葉さまの精神は強靭ですから普段は薬に頼るということはありません。ですが、今日は相当にお嫌なことがあったみたいでした」
「ああ。久我峰にセクハラみたいなことを言われたって言ってた」
「……やはりですか。そういったときは秋葉さまはストレスで眠れなくなってしまうんです」
「大変なのね」
ストレスという言葉と永久に縁の無さそうなアルクェイドが呟く。
「それで薬を?」
「はい。睡眠薬の類ですね。それを姉さんに調合して貰うんです」
「なるほどな……」
眠れない人が睡眠薬を使うってのはよく聞く話だ。
「でも、その薬のせいで秋葉はあんな風になっちゃったんだろ?」
「はい。睡眠するまえに泥酔というか……意識が朦朧として、いわゆる夢遊病のような状態になります」
ようするにさっきの状態になるわけだ。
「そんな変な薬を琥珀さんが?」
「はい。姉さんはその薬を服用すると秋葉さまがそのような状態になることを知りませんから」
「知らないの?」
「秋葉さまがあのような状態になるのは決まってこの時間帯です。この時間帯はわたしが見まわりを行っていますから、姉さんが外に出てくることはないんです」
それはさっき琥珀さんに聞いたのと似たような話だ。
琥珀さんは夜中に怪しいことをやってるかもしれないけど、翡翠にばれるのは嫌なのだろう。
だから翡翠が見回りをしている間は外に出てこない。
そしてそんな状態に秋葉がなることを琥珀さんが知らないならば、秋葉が起きないと断言したのも頷ける。
「なんで? そういう変な状態になるのってよくないんじゃない? 琥珀にそれ教えないの?」
アルクェイドが尋ねる。
それは俺も聞きたかった。
人間の心理として普通そういうのはなかなか聞きづらいんだけど、今回だけはアルクェイドに感謝する。
「いえ……。先ほどの状態の秋葉さまは、普段抑制している色々なタガが外れています。それによって日頃話してくださらないような不満や悩みなどを、話してくれるようになるんです」
なるほど。
確かにさっきの秋葉は日頃の不満や言わないことをすらすらと話してくれた。
俺が好きだと言うこともいともたやすく。
「大抵の不満というものは人に話すだけでもかなり解消できるものです。事実、悩みを話した翌日の秋葉さまは非常に清々しい顔をされていました」
翡翠はそう言って微笑んだ。
「なるほどな……」
つまり薬の副作用によって予想しなかった良い効果が現れたわけだ。
「何か体に悪いことが起きたりってのはないの?」
「それは平気です。時南医師にも安心だと保証を受けていますので」
「あのじいさんか……」
時南医師ってのは俺がよく世話になっている医者のじいさんで、口は悪いが腕は保証できる。
「なら平気だな。他には?」
「はい。秋葉さまはその時のことは一切覚えていらっしゃいません」
「ふーん……」
「時々先ほどのように少々暴走してしまうこともあります。ですがわたしは先ほどのメリットのことを考えて姉さんには黙っています」
琥珀さんは自分の薬の調合には結構自信を持っている。
そういう自分の意図しないところでの効果って言うのはあんまり好きじゃないんだろう。
だから翡翠は敢えて黙ることを選んだのだ。
「翡翠らしいよ」
「いえ、そんなことは」
少し照れた顔をする翡翠。
「ですから出来ればこのことはお二人の胸の内に閉まっておいて頂けると助かります」
「まあ、構わないわよ」
「そうだね。そうするよ」
言ったことを覚えてないんだったら俺を好きだと言った事も覚えてないだろう。
正直秋葉を意識しすぎてしまってまともに生活できなくなりそうだった。
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる翡翠。
「……では、そろそろ就寝されたほうが良いと思います。明日に響きますから」
なんだかその言葉で急に現実に引き戻された気がした。
「ちなみに今何時?」
恐る恐る尋ねる。
「はい、今は……」
翡翠が腕時計を見ながら時間を言う。
「……徹夜したほうがいいかもなぁ」
苦笑するしかないような時間であった。
続く