確かに一瞬険悪な雰囲気にはなった。
けれど、そんな事で翡翠がアルクェイドを妨害するんだろうか。
ついさっきまでだって、応援してくれていたじゃないか。
一体どうしちゃったんだろう、翡翠は。
「……」
翡翠は何も言わず、ただその契約書を見つめているのであった。
「屋根裏部屋の姫君」
第六部
姫君とメイド
その29
「……やはり」
しばらくして翡翠はそう呟いた。
「やはり?」
「秋葉さま。貴方を犯人ですっ!」
そしてびしっと秋葉を指す。
「なんですって?」
秋葉は驚いた顔をしていた。
「志貴さま、おかしいと思いませんでしたか?」
「え……」
「この契約がです。考えてください。秋葉さまはこのような事をする人でしたか?」
「お、おかしくなんてないわ。わたしは正常よ」
言葉とは裏腹に慌てた様子の秋葉。
「つまり、わたしを雇おうとしている事がおかしいって言いたいの?」
アルクェイドが尋ねる。
「はい」
「……まあ、確かに変だなとは思ったけど」
順調に話が進みすぎてるし。
喜びのほうが大きくてちゃんと考えなかったが。
「ですから、よく契約書をお読みになってください」
「あ、アルクェイドさんっ。翡翠の戯言など気にしてはいけません。ぱぱっとサインをしてしまえばいいんです」
「……」
怪しさ大爆発の秋葉。
「アルクェイド」
「わかってるわよ。ちゃんと読んでみるわ」
そんなわけで俺たちはじっと契約書を眺めてみた。
やたらと小さい字で書かれていて、見辛い。
「……なんだ? これ」
けれど、そこに書かれている事がとんでもない事だということはよくわかった。
「雇用者に対して無償で働く事を……ってタダ働きって事よね?」
「しかも雇用者の命令には絶対服従ときたか……」
他にも細かくそんな事ばかりが書かれている。
これではもう、メイドというより奴隷みたいな扱いである。
「……そうか」
翡翠は秋葉の行動に怪しさを感じ、この契約書に何かあるといち早く感じ取っていたのか。
アルクェイドの邪魔を……とか下らない事を考えてしまった自分が恥ずかしくなってしまった。
やはり翡翠は翡翠であったのだ。
「ちょっと。これどういう事なのよ、妹」
むっとした顔で尋ねるアルクェイド。
「まったく……翡翠も余計な事をしてくれたわね」
秋葉はため息をついていた。
「けれど誤解しないで下さいな。アルクェイドさんを雇ってさしあげようという気はあるんです」
「だからってこんな扱いはあんまりだろ」
こんな条件で雇われたって嬉しくもなんともないじゃないか。
「あのですねえ」
「なんだよ」
秋葉は悪事がばれたというのに堂々としていた。
開き直りでもしたんだろうか。
「この人が」
びしっとアルクェイドを指差す秋葉。
「こんな紙切れ一枚に書かれた文章でどうにかなるとお思いですか?」
「……」
アルクェイドさんっ! また命令を破りましたねっ!
えー? だって面倒なんだもん。
この契約書を忘れたのですかっ! これがある限りあなたは私に絶対服従なのですよっ!
そんなの知らないわよ。じゃあねっ。
ちょ……待ちなさい! このっ!
「……ならないだろうなぁ」
まずこういう展開になるだろう。
「でしょう? こんなものお遊びにすぎないんです」
「その割にやたらと綿密に作られているような」
「……気付かなかったら、本当にその条件で雇おうかなという気持ちも確かにありましたが」
あったんかい。
「重要なのは、そういう細かい点にも気付けるかどうかというところだったんですよー」
そこで琥珀さんがそんな事を言った。
「琥珀さん」
「前にも言いましたけど、メイドに重要なのは細かい気配りです。どんな些細な事も見逃してはいけないんです」
「……もしかして、これ作ったの琥珀さん?」
「そりゃもう」
にこりと笑う琥珀さん。
「翡翠にも事情を話しておくべきだったわね。これじゃテストにならないじゃないの」
「そうだったのか……」
契約書が合格を示すものではなく、テストするためのものだったとは。
翡翠がいなかったら契約書の罠に気付かなかったかもしれない。
危ないところだった。
「……あ、あの、もしかして余計な事をしてしまったのでしょうか」
戸惑った表情の翡翠。
「いえ、これはテストの一環に過ぎないもの。構わないわよ」
「え……じゃあ?」
「アルクェイドさんの採用テストは引き続き行います。もちろん成績が悪かったら落としますよ」
「あ、ありがとう秋葉っ」
俺は思わず秋葉の手を握った。
「……感謝されるほどの事ではありませんよ。あくまでテストをするだけなんですから」
ぷいとそっぽを向いてしまう秋葉。
「まあ合格は間違いないけどね」
アルクェイドは不敵に笑っていた。
「ふふふ、散々こき使って上げますから覚悟してくださいね」
秋葉も同じように笑っている。
「……うーむ」
これはいい展開なのだろうか、悪い展開なのだろうか。
「いきなりこんな契約書攻撃してきた妹だもんね。油断しちゃ駄目だって」
「そうだな」
もしかしたらとんでもない無理難題をけしかけてくるのかも。
「テストって何するの?」
試しに尋ねてみる。
「ええ。実際に数日間遠野家で働いてもらいます。その仕事ぶりをみて評価するという事で」
「……実際に働いてもらう……か」
このテストで秋葉がアルクェイドをいぢめようと考えているとしても、コミュニケーションの場が増えるのは間違いないからな。
かなりの大躍進と言えるだろう。
「では、アルクェイドさんが遠野家に寝泊りしても構わないと?」
俺が一番聞きたかった事を琥珀さんが聞いてくれた。
「……家から通えばいいじゃないの」
さすがにこの発言には秋葉はいい顔をしなかった。
「でも、やはりメイドというのは住み込みが基本ですし」
「客室は既に掃除してあります。そこに寝泊りして貰えば問題ありません」
「……」
じっと俺を見る秋葉。
「頼むよ秋葉」
俺は頭を下げた。
「ほら、アルクェイドも」
「お願いします。住み込みで働かせて下さい」
アルクェイドが珍しく敬語を使っていた。
「……ふむ」
それがどうやら決め手だったらしい。
「わかりました。外の離れでも勝手に使ってください」
「マジで?」
「……その代わり、兄さんが離れに近づくのは禁止しますよっ!」
「ああ、うん。わかってるわかってる」
俺は二つ返事で頷いた。
「実にうまくまとまりましたねー」
ぽんと手を叩く琥珀さん。
「うん、琥珀さんもありがとう」
なんだかんだで俺のサポートもしてくれているのはさすがであった。
「では、アルクェイドさまに遠野家をご案内いたしましょう」
「そうね。色々覚えなきゃいけないし。ありがとね、妹」
「いえいえ。これからしっかり頑張ってくださいね」
「……」
あの秋葉がアルクェイドにそんな言葉をかけるとは。
なんだか嬉しかった。
これならきっと大丈夫。うまくいくだろう。
「志貴さん、行きますよー」
「あ、うん」
琥珀さんたちを追いかけていく。
「私が上、あなたが下という事を実感させてあげます。ふふふふふふ」
いや、ほんとに大丈夫だよな?
続く