そうして、ドアを閉じる直前に俺を呼んできた。
「なに?」
俺は琥珀さんの傍に歩いていく。
すると琥珀さんは耳元でこう囁いたのである。
「……駄目ですよー。どうするんですか? 離れにシエルさん、まだいるかもしれないんですよ?」
あ。
その言葉で俺は全てを思い出すのであった。
「屋根裏部屋の姫君」
姫君と過ごす休日
その4
「あ、あはは、あはははははは……」
なんてことだ。
こんな重大なことを忘れていたなんて。
昨日は色々ありすぎたのがいけないんだ。
「どうしたの? 何か面白いこと?」
後ろからアルクェイドが訪ねてくる。
「い、いや、まあ、そうだよ、うん」
コイツにだけは知られてはいけない。
昨日の夜、先輩が現れて、しかも離れに泊めてあげただなんて。
単にシエル先輩がいるというだけでもアルクェイドが不機嫌になるのだ。
それが自分と同じようにこの家に泊まっていたなんて知ったら、そりゃあもう烈火のごとく怒るに違いない。
このままアルクェイドと屋敷の外を歩き回るということは、庭で先輩に遭遇してしまう可能性があるということだ。
それはもう、最悪の事態である。
秋葉はここに住んでいるから出会ったとしても仕方ないが、シエル先輩と出会ったりしたらそれこそ「どういうことなんだ」となってしまう。
「あああ、アルクェイド。俺さ、ちょっと秋葉に話したいことがあるから琥珀さんについていくよ。ちょっと大人しく部屋で待っててくれないか?」
「えー」
あからさまに不服そうな顔をするアルクェイド。
「教科書でも読んで待っててくれよ。まだ鞄の中に一杯あるからさ」
宿題をやるために持ってきたものだが、教科書を読んで楽しいというアルクェイドなら暇つぶしになるだろう。
「まあ、それならいいけど」
「悪いな。すぐ戻ってくるからさ」
俺は背中に冷や汗を流しながら部屋のドアを閉じるのだった。
「とりあえず急いで離れを見に行ってみるよ」
「はい。わたしも翡翠ちゃんも朝は忙しくて離れの様子を見にまでは行けなかったので、お願いします」
「ああ」
「秋葉さまのお相手はしておきますので」
「悪いっ、ありがとう」
琥珀さんに感謝をして廊下を駆ける。
「志貴さま。廊下を走っては……」
途中で翡翠とすれ違った。
「ごめん、ちょっとそれどころじゃないんだ」
謝って階段を駆け下りる。
「志貴さまっ」
翡翠が少し強い口調で俺を呼んだけど振り返ってる暇はない。
事態は一刻を争うのだ。
玄関を出て、庭へ。
離れに向かって全速力で駆ける。
「はぁ……はぁ……」
離れに辿り着いた頃には肩で息をしていた。
朝から運動をするのはけっこう辛い。
「……えーと」
額の汗を拭い、離れのドアに手をかける。
鍵は閉まっていた。
「せんぱーい。せんぱーい」
ドアを叩きながら先輩を呼ぶ。
しかし返事は無い。
「……もう帰っちゃったのかな?」
それならひと安心だけど、もし歩きまわってたりしたらシャレにならない。
「ああ、もう……」
せっかくの休日なのになんでこんなに悩まなきゃいけないんだ。
「……」
自業自得という言葉の意味を俺はとても実感した気がした。
「せんぱーい。シエルせんぱーい」
無駄とは知りながらも名前をもう一度呼ぶ。
「志貴さま」
「うわっ」
背後から声をかけられたので慌てて振り返る。
「ひ、翡翠か……」
人を探しているのに声をかけられるとびくついてしまうのは我ながら奇妙であった。
俺の場合、見つかったら酷い目に遭いそうな人ばっかりが知りあいだからなあ。
「驚かせてしまいましたか?」
翡翠は申し訳なさそうな顔をしていた。
「いや、大丈夫だよ。今さ、ちょっと先輩を探してたんだ」
「シエルさま、ですか?」
そういえば翡翠は昨日シエル先輩を泊めたことを知らないんだった。
「うん。……あ、いや、そのさ。昨日ちょっと色々あって」
「なるほど」
「へ?」
翡翠はなんだかわからないけど納得したような顔をしていた。
「なるほどって、なに?」
「はい。アルクェイドさまはお気づきになっていられませんでしたが、本日志貴さまの部屋の窓にお手紙のようなものが挟まれていたんです」
「手紙?」
「先ほど志貴さまに渡そうとしたのですが、その、走っていかれてしまいましたので」
さっき呼びとめたのはその手紙を渡すつもりだったようだ。
「そうだったんだ……悪いな」
「お気になさらずに。それで、封筒の裏を見たらシエルと書いてありましたので、アルクェイドさまに見つかってはいけないだろうとわたしが保管しておいたんです」
それは非常に嬉しい心遣いだ。
「ありがとう翡翠。翡翠は最高のメイドさんだな」
「そんな……」
照れた顔をする翡翠。
「……これがその手紙です」
そう言って白い封筒を手渡してくれる。
「どれどれ……?」
裏には小さく「シエル」と書かれていた。
上の部分を破り、中の手紙を取り出す。
『遠野君。昨日はどうもありがとうございました。日が昇ってきたので家へと帰ります。近いうちに必ずお礼はしますので』
手紙には綺麗な字でそう書かれていた。
「……お礼なんてそんな、別にいいのにな」
困ったときはお互い様である。
「先輩、帰ったみたいだ。よかったよ」
「そうですか」
これで一安心だ。
これならアルクェィドと庭に出たって平気だろう。
「じゃあ俺部屋に戻るよ。……すぐに出かけるかもしれないけど」
「かしこまりました。それでは」
俺は翡翠と別れ、屋敷へと戻ることにした。
「おそーい」
玄関を開けるといきなりアルクェイドが立っていた。
「ばか。部屋でじっとしてろって言っただろ」
「言ってないわよ。教科書でも読んで待ってろとは言われたけど」
揚げ足を取るようなことを言うアルクェイド。
「同じだろ、全く……」
俺は溜息をついた。
「秋葉にばれたらどうするんだ」
「琥珀が言ってたじゃない。今日は休日だから見つかっても平気だって」
「そうだけどさあ」
見つからないに越したことはないのである。
「まあいいや。部屋から出てきたんならちょうどいい。このままどっか出かけるか」
「お出かけ? うん。行こっ。どこ行く?」
急に上機嫌になるアルクェイド。
まったく現金なやつである。
「どこでもいいけどさ。とりあえず外へ……」
屋敷の外まで行けば秋葉には見つからないだろう。
そう思いながら玄関を開ける。
「……」
「あれ?」
開けた途端、そこにいた翡翠と目が合った。
そりゃ翡翠だって屋敷に戻ってくるだろう。
だけど、翡翠はなんだか凄く複雑な表情をしていたのである。
「どうしたの?」
尋ねる。
「志貴さまに、お客さまです」
「お客さま……?」
すると、翡翠の肩の後ろに人影が見えた。
「おはようございます、遠野君っ」
「……」
途端に隣にいたアルクェイドが顔をしかめた。
「あ、あは、あはは……」
近いうちに必ず、とは書いてあったけど。
こんなに早く来なくたっていいんじゃないかなあ。
「……おはようございます、シエル先輩」
俺はもう今日が平和な一日にならないことを確信しながら、挨拶をするのであった。
続く